ザ・リッツ/カブーン!

特集上映「サム・フリークス Vol.30」にて「ゲイ映画二本立て」を観賞。二作の間はもちろん、映画館で見ている「今」の映画とも繋がりまくっていて面白かった。


▼『ザ・リッツ』(1976年アメリカ)はオープンリーゲイである(いつからだろう?)テレンス・マクナリーの1975年の舞台を元に、リチャード・レスターがほぼオリジナルキャストで映画化した作品。

大雨の中、大荷物の主に男達が次々通っていくフロントでの長いドタバタの後に主人公ガエターノ・プロクロ(ジャック・ウェストン)がゲイサウナ「ザ・リッツ」の中に入ると場面一転、聞いた通り実に「何でもある」のは、「レーガンジョン・ウェインの愛人だったんだから!」「芸能界はお仲間だらけ?」にも通じる、外からは見えないけれどゲイの世界にだって勿論何でもあるという比喩のように思われた。振り返ると老舗ホテルふうの入口の屋根からして面白い(参考リンク)、ガエターノだってあれで信用して入ったに違いない。

リタ・モレノ演じるグーギー・ゴメスは、ショービジネス界で活躍中の「女優」の名前をガエターノがあげると「あいつらは偽プエルトリカン!私は本物」と憤慨する。マイノリティの演技をするマジョリティは有名になれるが実際のマイノリティは活躍できないという今なお続く差別が表されている。彼をプロデューサーと勘違いして「枕営業」を持ちかけまくるという昔はよく見かけたキャラクターもザ・リッツの中では楽しく映り、三流という役どころながらステージは全然すてき(リッツボーイズ…じゃないダフ&タイガーとの舞台には安全に撮影できたのか心配してしまった)。水着のパンツをやたら直すのには、固い小さいパンツ履いてるとああなるんだよねと思ってしまった笑。

映画に度々描かれる、マイノリティとマジョリティが反転した状況が全編通じてうまく使われている。高い声からゲイだと決めつけられる、おそらくゲイではない探偵ブリック(トリート・ウィリアムズ)がおそらく周囲に馴染むために最初から最後までタオル一枚巻いただけという無防備さが私にはまぶしかった。このさかさま世界へサカーマイン・ヴェスプッチ(ジェリー・スティラー…ベン・スティラーのお父さん)なるガエターノの義理の兄が弟を殺すために乗り込んできて、「ゲイは全員プールへ!」と銃でもって皆を追い込む場面がなかなかに怖い。一人のくるった奴によってどんな犠牲が出るか分からないからだ。結局は「おれはゲイじゃない」を最後の言葉に彼が逮捕されるのがオチなわけだけど。


▼『カブーン!』(2010年アメリカ)はグレッグ・アラキ全のせといった感じの一作で、多くの作品に通じる「大学で何らかの専門的な勉強をしている若者が友だち同士で栄養にならなそうなものを食べる」というのが奇妙なほど心に残る(反対に「ストレート」の男達は一人でハンバーガーを食べる)。

序盤に描かれる、主人公スミス(トーマス・デッカー)と「共犯者」のステラ(ヘイリー・ベネット)それぞれのセックスシーンにまず引き込まれる。ステラと特殊能力を持つローレライの方はもちろん、スミスとロンドン(ジュノ―・テンプル)は「男」と「女」なのに…そうそう、公開中のオドレイ・ディワンの『エマニュエル』の理想がこんなところに!と思ってしまった。完全にシステムの外にある(裏を返せばこれほどグレッグ・アラキ的世界でなければシステムから逃れられないとも言える)。初対面時にロンドンが「ゲイにそそられる」というようなことを言うのは、グレッグ・アラキだから書いてもいいセリフだとも言えるし、要するに女は男とはセックスしたくないのだとも言える。

シスヘテロ男の性器の舐め方というか啜り方に「麺じゃないんだから」(これにはさすがに笑ってしまった)とロンドンが「本音のアドバイス」をしようとするが「聞きたくない」。それでも優しく簡潔に教えてやるとちゃんとやれる。こんなふうにグレッグ・アラキの作品にはジェンダーやセックスに対する直球の真面目さがあって、それはドラマ『ナウ・アポカリプス』にもずっと続いている。加えて実際に何があったのか、これから何があるのか分からないという言いようのない不安と、でもそんなもの、別にいいんだと吹き飛ばしてしまう軽さがある。これらは今年見る他の映画にも繋がっていくという予感がする。