美しく、黙りなさい


「フランス映画と女たち PART3」で観賞、1981年デルフィーヌ・セリッグ監督作品。ハリウッド1975年、パリ1976年と最後に出る…ということは去年見て感じ入ったジャンヌ・モローの監督作『リュミエール』と同じ頃に作られている。1981年なら前日見たアニエス・ヴァルダ『ドキュモントゥール』のサビーヌ・マモーが何とも美しく感じられたのは、本作で皆が口を揃えて言う女性差別の元の画一的な美じゃないからだろう。

「男たちの幻想」たる映画…と何人もがはっきり言う…において仕事をしてきた「女優」たちが、子どもの、スタッフの?声を背景に、本棚の前で、花の後ろで、多くが煙草を吸いながら喋る顔のアップが延々続く映像の見応えのあること。女の共同作業の成果である。登場する23人の写真(宣材めいたものそうでないもの色々で誰が選んだのか大変に気になった)に合わせて名前を読み上げるオープニングが温かい。ふと、男性監督の映画だけど『少女は夜明けに夢をみる』(2016年イラン)のオープニングクレジットが少女たちの直筆だったのを思い出した。

女子校に通っていた時はあらゆる役を演じられたのに…などの、先日SNSで見かけたじゃないかと思わせられる、今では周知され幾つかは名付けられてもいる差別のあれこれが語られる。セリッグの問いかけも絶妙で、例えば上映後のトークで坂本安美氏は、というか今なら個人的な意見じゃなければ誰でもそうするように「ブランドは50歳を過ぎても魅力的『とされている』」という言い方をしたけれど、フランス語が分からないので日本語字幕の話だけど、作中では彼は魅力的かと問われた一人(誰だっけ?失念)は魅力的だと返すのを、セリッグがそれは社会通念なのだと気付かせていく。映画を作ること自体が運動になっている類の作品だ。

マリア・シュナイダーの「統合失調症レズビアンばかりでうんざり、もっと軽い役がやりたい」は時代的な差別感情かと思うが、そういうことでもないと分かってくる。リュス・ギルボーの「来るのは娼婦の役ばかり、ある時この娼婦はどうやって避妊していたのか監督に聞くとそんなこと誰も気にしないと。決め台詞は『男はいやらしい女が好き』」(ここで満席の場内でかすかに苦笑が聞こえた、私もそういう気分だった、笑うしかない)。『何がジェーンに起ったか?』でメイドを演じたメイディ・ノーマンははっきり言っている、「メイドは実際いるけれど、人間として描かれているか食器として描かれているかが問題」。

「監督は妻の言うことも聞かないだろうけど女優の言うことは一切聞かない、脚本について何か話すと批判されたように受け取る」。エレン・バースティンが「女だからといって冷蔵庫ばかり気にするのは変だ」と話したところ、脚本が変更され彼女の提案した内容が他の男性出演者の演説になっていた…という話も酷いが「最高の額の出演料」がニューヨークまでの交通費より安かったというのも驚きだ(が、これもいまだ聞く話だ)。

中盤「映画は男二人の話ばかり、女は共有物であり除け者」という問題が取り上げられるが、終盤は女が複数出てくることについて、すなわち後年でいうベクデル・テストの話になる。男は女の繫がりを恐れるので女性が二人以上出てきて敵対しない映画は珍しい。ジェーン・フォンダが女性の連帯を描く『ジュリア』の撮影につき「異変を感じた」と表現するくらいだ。「女が一人だけ、あるいは男を巡って女が争う話では常に演技をしていたが、この時は演技をしなかった」というのが面白い。ジュリエット・ベルトなどは共演女優と楽屋で話すことさえ禁じられたそうだ。ちなみに彼女が家族の話をする中での「女だけの家だったから男が入り込んできた」には『Four Daughters フォー・ドーターズ』を思い出した。全くもって今も変わっていないことしかない。それなのに見て元気が出るんだから、連帯の力は強い。