バルコニーの女たち


「フランス映画と女たち PART3」で観賞、2024年ノエミ・メルラン脚本監督、セリーヌ・シアマ共同脚本作品。

とりわけ一人暮らしの場合、女が住んでいると分からないよう洗濯物は外に干さずカーテンの色にも気を遣いましょうなどと言われるものだけど、この映画はある部屋の女達がバルコニーに色とりどりの下着を干しまくっている光景に始まる。窓辺でパンツ一丁で平気な男のカットに被る、丸見えで着替えもするルビー(スエイラ・ヤクーブ)の「嫌なら見ないでしょ」は理屈が通っている。なんでこっちだけ気を遣わなきゃならないのかという話だ。ラスト、バルコニーから出て闊歩する三人や街を謳歌する女達の胸丸出しの姿に映画の芯がある。

(以下少々「ネタバレ」しています)

前日の『美しく、黙りなさい』(1981年デルフィーヌ・セリッグ監督、感想)から続けて見ると、だから私達はこういう映画を作るんだ、見るんだ、ということになる。「映画は男二人の話ばかり、女は共有される物」が反転している冒頭になるほどと思っていると、話はもっと深くに転がっていく。ルビーが暴行男を殺した後始末をニコール(サンダ・コドレアヌ)とエリーズ(ノエミ・メルラン)が当然のごとく行うのも、冒頭に友人女性が暴力夫を殺した件が物語においてそれ以上取り上げられない、「特別じゃない」のも、要するに一人の女の問題は全ての女の問題ということなんである。女達が分かり合う海のシーンの美しいこと。

死体を始末する三人は、それこそ『美しく、黙りなさい』の時代、いやもっとずっと後の時代まで女には「許され」なかった必死の形相で、男が見たい姿から程遠い。強調される股間だって男向けのそれではない。かといって女のロールモデルになるような、見て安心できるような完璧な人間でもない、全然強くないのがよい。エリーズは交際している男の機嫌を常に伺い避妊具なしの挿入も許してしまうし、ニコールは「私はブスだから」と自分を卑下する。彼女が殺された男達の亡霊を見るのは男に引け目があるからだろう。消え失せろと念じれば消えるのだ。