ブレイク・ビーターズ



主人公フランク(ゴードン・ケメラー)の「僕の人生が始まった」というナレーションと同時に、東ドイツの一都市デッサウの若者達の「ビート・ストリート」初体験が始まるオープニングクレジットはとても気持ちがいい。それが体を貫くというより心にぐっとくるのは、「僕は全てにおいて準備が出来ていなかった」と始まるアヴァンタイトルの「物語」ゆえである。この映画は全篇、そういう映画である。ダンスも楽しいけどまず物語。


映画のラストはフランクの「記録に無くたっていい、これは僕らの物語なんだから」。本作のストーリーは「実話に基づく」そうなので、これもまた、私の好きな「歴史の隙間を勝手に埋める」映画に分類してもいいのかな(笑)ここでオープニングを振り返ると、彼の言う「僕の人生の始まり」とは、映画の冒頭数十分の、ただただダンスが好きで踊っていた頃だけを指しているのではないことが分かり、じんとする。


ブレイクダンスを知ったばかりのフランクの中に大音量で流れる音楽が、隣人の、すなわち街角ですれ違う見知らぬ人ではなく自分を知っている人に声を掛けられてぶつっと止むのは、この時点では、彼の音楽、すなわち彼自身が「現実」と対立していることを表しているのだと思う。ドアを開けると家の中には、父親が始終流している亡き妻の好んだ曲、すなわち今の「父親」そのものが充満しており、「フランク」はそれともぶつかる。


作中の「ブレイク・ビーターズ」のダンスの何割かは、冒頭彼らの口から説明される「ブレイクダンスの精神」(自分の言いたいことを独自の言語で表現する/皆違うのだから、それぞれ違うふうに)に反しているものだ。尤も「制服(最後に彼らが脱ぎ捨てる、あてがわれた揃いの服)」こそ着ていても、もともと?全員で行う技を取り入れたり、「目」の無いところでは「一人が得意技を披露し、残りは後ろで踊る」形式にしたり、終盤のリハーサルの場面では三人の心の内の反発が表れていたりと、「社会主義化されたブレイクダンス」をそのまま見せはしない工夫がなされており、それが却って面白かった。


娯楽芸術委員会が、会議において、雑誌の特集で「ブレイクダンスの精神」を学び、熱中する若者の目的が「個別化」だと見抜き、それを摘むことにするのは、何とも手早く的確な「芽の潰し方」だ。うっかり懐に入り込んだ「ブレイク・ビーターズ」の面々に物や「許可」を与え、それに靡かない者(その中には「外国人」がいる)からはそれらを奪う。街で段ボールを敷いて踊っている若者達を、多くの大人達が(楽しそうな顔でもなく)取り囲んで見ているのが印象的で、こういう社会では「目」が機能している(させられている)んだなと思った。