Pachinko パチンコ


Apple TV+で無料配信中にS1E8(現在の最新話)まで観賞。当事者の参加が進んでいる点も含め、これまで韓国のドラマや映画で少しずつ描かれてきた日帝強占期や在日朝鮮人といった要素の現在での集大成にしてこれぞ映像化!という感じを受けた。

小説『パチンコ』の素晴らしさは、その時代を生きた多くの人々…朝鮮人や日本人の中でも辺境に生きる人々の心のうちが語られているところにある。丹念な取材を元にしたそれらは似た境遇の下であろうと異なっており、読者である私には「分かる」なんて、推測できるなんて簡単に思ってはいけないものだ。映像化となればそれは活かせないから、映像ならではの要素が必要、また魅力となる。

小説では時間順だったのが、日帝強占期の釜山とバブル期の大阪が交互に描かれることで作り手の解釈と主張が伝わってくる。E1の裕仁崩御とソンジャの父の死とを続けるところなど強烈な意図がある。E4(ジャスティン・チョン監督)の、ソンジャ(この時期をキム・ミンハ)が渡阪する船内で自国の歌を歌った女性歌手の死の一幕とソロモン(ジン・ハ)が父のあとに筑豊へ渡ったハン・グムジャ(パク・ヘジン)から土地を買い上げようとする会議室の一幕とのカットバックには「『サインしないで』」からあと泣いてしまった。どちらもドラマ独自の場面であり、ソンジャ(長じてユン・ヨジョン)の世代と孫ソロモンの世代との間にああしてあるものが流れること、それが彼らにとっては解放であることが本作の主題の一つだと分かる。それを踏まえてシーズン後半には世代間の齟齬も描かれる(土地買収の話は次シーズンに持ち越される)。

E7(コゴナダ監督)は作中唯一時間の行き来のない回で、E6ラストでコ・ハンス(イ・ミンホ)に他の女が男の子を生んだと聞かされた日本人の妻が言う「息子はあなたのことをどう思うでしょうね」を受け、丸々一話をかけて彼がなぜそのような生き方をするようになったかというエピソードが描かれる(尤も私は彼の生業はともかく女性への態度については、小説に書かれた「男は愛人を持つものだ」だけに説明を留めるのがむしろよいと思う)。ドラマ独自のそれは関東大震災の際に起きた朝鮮人虐殺事件。ちょうど一年前の年始休みに見た光州民主化運動を描くために制作されたというドラマ『砂時計』(韓国・1995)で丸々2話を掛け残虐行為が描かれていたのに比べたら短時間、内容も読んで知っているものより随分「マイルド」だけど、その酷さは最後に出る、どれだけの朝鮮人が殺されたかという文の内容だけで伝わってくる。

E8(ジャスティン・チョン監督)ではやはり小説には無かった、世界のそこここに現存する、移り住んだ先の国で生まれた子がその地の言葉に不慣れな親のために通訳をするという場面があるが、作中初めて幼いノアがそれをするのは父のイサク(ノ・サンヒョン)が日本の警察に逮捕された際の辛いやりとり。しかしこの最終話は、ソンジャが家計のためにキムチを売らんと猪飼野市場に出向き、始めは小声で「すみません(日本語)」としか言わないのがやがて韓国語と大阪弁でもって声を張り上げるようになるのに終わる。キョンヒ(チョン・ウンチェ)の「辛さは消えてなくなりはしないが紛らわす方法を知ることはできる」とはそういうことではないか?

ドラマの最後の最後は「2021年 東京」、「第二次世界大戦後に日本に残り無国籍状態で苦難に耐えた女性たち」の現在、多くの「ソンジャ」のインタビュー映像に終わる。病院のトイレの前なんて場所で大量の自作のおかずを広げながらソンジャが言った「自分を二つに割っては生きられない」とは、国を二つ持つことの苦難を言っているように思えるが、ドラマには出てこないが小説で印象的だったキョンヒの「なぜだろう、男には去るという選択肢がある」との言葉を思い出すと、女の辛苦について言っているようにも思える。

正直政治家 チュ・サンスク


のむコレにて観賞、2020年韓国制作、チャン・ユジョン監督作品。「言葉が頭の中じゃなく腹の奥から出てきちゃう」「うんこじゃあるまいし」「そんな感じ、括約筋が使えなくなって」との説明で「嘘がつけない」状態を説明するあたり安定の韓国作品。ナ・ムニのアレも何度も見られる。

冒頭コメディ調に描かれる、見事なチームプレイで悪事を隠蔽し狡猾なやり方で支持を集める選挙運動が、主役が中年女性、しかも演じるのがラ・ミランというだけで面白い。例えば日本(韓国にもあるのか)の「男じゃまじで怖いけど女なら笑える」お笑いの定番「鬼嫁」ネタなどの精神とは逆だということは、嘘がつけなくなったチュ・サンスクが嘆く「男ならここまでのことにはならない」の一言に表れている。

「政治家が嘘をつけなくなる」という設定自体はそんなに面白いものでもない。その口から出てくるのは、字面だけ見るなら予想通りのものばかりだから。ラ・ミランの円熟の演技による当人の様子や、それによって起こるあれこれ(「正直な候補(原題)」として却って支持率が上がるというのは予想がつくところなので、それ以外のあれこれ)が見どころ。

あってもなくても本筋には支障ない外国人メイドのエピソードにおける、韓国語が流暢なのに周囲は誰もそう思っておらず「韓国語が上手だね、ずっとタメ口だけど」「誰も私に敬語を使わないのにどこで覚えるの」なんてよいやりとりだ(敬語とは異なるけど、日本語学校で先に丁寧語から勉強する理由がここにある)。

年始の記録


あけましておめでとうございます。いつものおせち。


年越しケーキのマーサービスのストロベリーピスタチオシフォンケーキに、元日ケーキのトリアノンのフレーズトルテ。
今年の初アイスのヴェンキのジェラートに、プレミアムマリオジェラテリアの「うぐいすピスタチオ」と「あんこチョコレート」。どれも美味しかった。

今年を振り返って

今年劇場で見た映画の中からお気に入りベスト10を、観賞順に。

『アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド』(感想)…ワクチン接種の予約の際に感じた複雑な気持ち、パートナーとの関係は世界へ開かれていなければならないのではという思い、割り切れないロマン、その時の自分に近しい色々が詰まっていた。

『声もなく』(感想)…いまだ「息子じゃないから」と身代金をしぶるような家庭で育ち、大人の男の機嫌を常に伺って生きている少女の描写がこの映画を特別たらしめている。彼女とユ・アイン演じる青年との触れ合い、別離。

『金の糸』(感想)…1978年作『インタビュアー』から受けた印象がこの新作では言葉でもってはっきり語られていた、生を楽しむことこそ何とか生き延びてきた私達ジョージア人の才能なのだと。アヴァンタイトル始め独特のセンスに魅せられる。

アンネ・フランクと旅する日記』(感想)…いつの時代にも存在する、物語の流通に伴う危険性への皮肉によって、『アンネの日記』が何度も映像化されてきた理由が分かる。これまでの映像化作品を改めて見直したくなる。

『ニトラム NITRAM』(感想)…「クリス・ヘムズワース」にはなれないオーストラリアの青年とその家族、世界のふちにかろうじて引っ掛かっている人々の物語。ジュディ・デイヴィスとエシー・デイヴィス。

『マリー・ミー』(感想)…『コーダ あいのうた』と本作にはアメリカ映画の底力を感じた。オーウェン・ウィルソン演じる教員の言動もよい。お伽話から突き落とされて上って来るというのには『魔法にかけられて』も連想。

『恋愛の抜けたロマンス』(感想)…日本料理屋でチャミスルを飲みながら(!)のおしゃべりは今年見た映画の中でも屈指の名場面。回想シーンの使い方も新しくエロい。

『秘密の森の、その向こう』(感想)…未来へ向かわない時間、もっと言うなら役に立つことばかりを求められる昨今見ると、その「止まっている」豊かさに涙が出そうになった。母が娘に「私達の子」を見せるのは近年のどの映画のどの場面より逸脱しており面白かった。

『オルガの翼』(感想)…現役アスリートが演じるオルガの、その心境をも映し出す体操シーン、ああいうものこそスクリーンで見る価値がある。厳しく辛い状況の中でも女同士はしゃいで笑い合う、朗らかという言葉を久々に思い出した場面が忘れ難い。

『ミセス・ハリス、パリへ行く』(感想)…ギャリコの原作のエッセンスの幾らかを再確認、違うアプローチを楽しんだ。労働者は「見えない存在」じゃないと訴える、どこへ行ってもぶちまけられたままの街路のゴミが見事。

次点、というかほぼ同じくらいよかった10作…ひかり探して/コーダ あいのうた/オートクチュール/ふたつの部屋、ふたりの暮らし/マイ・ニューヨーク・ダイアリー/不都合な理想の夫婦/PLAN 75/スワンソング/サポート・ザ・ガールズ/狼と羊

ウォーターメロンマン


「“ほぼ”アメリカ映画傑作選」にて観賞、メルヴィン・ヴァン・ピーブルズ監督の1970年作。

差別主義者の…と言ってもここまで露骨に表出しないだけで多くの人間の認識がこのようなものじゃないかと思わせる…中流階級の白人男性が目覚めたら「黒人」に。外へ出て散々な目に遭うのかと思いきや(それは私が時に、お前も「若い女」になってかつて私がそうだったように酷い目に遭ってみろよと思っているからだろう)、この映画、まずは主人公ジェフ(ゴッドフリー・ケンブリッジ)が「白人」に戻るために家の中であがき散らかすのにかなりの時間を掛けている。不思議に思いながら見ていたんだけど、後に彼が接する仲間達は生来の境遇に慣れざるを、受け入れざるを得ず、好き好んで得たわけではない強さを備えているがジェフはそうじゃない、その差、すなわち彼のじたばたにこそ不平等が表れているのだろう。

子どもらは終盤など妻アルシア(エステル・パーソンズ)の妹のところへやられてしまい存在感がないが、「ある程度まではリベラル」なアルシアとの場面が大方を占めるのも意外だった。なぜあんな夫を愛しているのか…あんな夫との「水曜日」を楽しみにしているのか今を生きる私には分からないんだけども、冒頭「肌を白くする薬」をずらり並べた奥の鏡に映る表情の滋味が素晴らしく、彼女の場合は「毎日つまらな」かったのがこの一件で生き返ったようにも見えた。女性といえばジェフが会社でセクハラしまくっていたノルウェー人の若い女性が彼が黒人となるや興味を示してくる、すなわち性欲を露わにされる方こそ差別されているのだという示唆は大変よくあるものだが、その顛末(顛末の顛末)は今なら「ない」だろう。

アリス・ギイから石坂啓、あるいは『軽い男じゃないのよ』などの作品は男女の立場が逆になった世界を描いているが、本作で逆転するのは主人公の立場であり、それをゴッドフリー・ケンブリッジが演じていることが肝。「白塗り」しての序盤も本来の姿に戻ってのその後も言動の全てがいわゆる自虐ジョークとして生命力を発揮しているから。『軽い男じゃないのよ』のような作品も「女」が「男装」して演じれば別の面白さが出るんじゃないかとふと考えた。

死を告げる女


テレビ局の会議において、その場でただ一人の女である局の看板アナウンサー、チョン・セラ(チョン・ウヒ)は「『アナウンサー顔負け』の容姿」と男達に賞賛される記者にケチをつけて蹴落とす。女の席はごく僅かで不安定だから、女同士がこうして傷つけ合うはめになる。そもそも女が品定めされることに慣れっこでないとやっていけない。彼女が嘔吐するのは冒頭から予想できる理由の他にも、生き抜くために自身を麻痺させているからだろう。

(以下少々「ネタバレ」しています)

『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』(2022)の主人公ヨンウの母は仕事のために娘を「捨てた」(ちなみに韓国で堕胎罪が無効となったのは2021年)。韓国ドラマでそのような母親を見たのは初めてだったので、ここへ来てやっとそういうことが描かれるようになったのかと思ったものだ。しかし『あのこと』しかり『ウ・ヨンウ』や本作しかりキャリアを築く際に妊娠出産は害だという話ばかりで、勿論それゆえ女の席がないわけなので第一の問題だけど、単に産みたくない、産みたくなかったという女はまだ描かれない。それは「理由もないのに」と「受け入れられない」んだろう(それ以前にお話にならないのか)。

シャワーの後の湯気で曇った鏡、局のメイク室の汚れた鏡にセラの顔はよく見えないが、彼女が訪ねた部屋の鏡には自身が、チェ・イノ(シン・ハギュン)の後ろ姿がはっきりと映り、あそこに「真実」があると分かる。母親の正体も映画を見慣れていれば登場時に予想がつくだろう。胎児の心音で終わるラストシーンには、これは堕胎するか否かを選択できる新しい世代の話なのだと思うと同時に、あの会議室が変わっていないのに彼女だけが、うちらだけが進んでも馬鹿を見るんじゃないのかとも思う。

催眠療法を見せるためだろうけど、精神疾患を話の中心に据えるのは病気の人にもそうでない人にも誠実じゃないと思う。そのことにより精神科医であるチェ・イノが探偵役となるが、演じるシン・ハギュンは「地に足ついてない」感ゆえ男にも女にも寄らず役に合っている。「男」「女」というのは地に足をつけていることによるから(と考えると、「地に足ついてない」感を持てるのは男の特権であるとも言える)。人外のようでいて、案外当人も共に惑ってしまうというのが彼らしくその様子に魅せられた。

ケイコ 目を澄ませて


映画はケイコ(岸井ゆきの)が部屋でひとり、床に座って氷を噛みながら文字を書いているのに始まる。彼女が日々の記録のそのノートをあっさりと会長の妻(仙道敦子)に渡してしまうのにすごく驚いたものだけど、見ているうちにそれこそ大事な瞬間だったと分かる。自分を言葉にして認めておく人の事情は様々だろうけど、彼女のあれは外に放ちたかったものに違いないから。

近年の映画には踏み込んだ行為による救いが描かれることが多いけど、大抵はすごく身近な人間によるのが、ここではそこまでじゃない。それが逆に重要で、だってケイコはノートを弟(佐藤緋美)には見せない、見せられないのだから。その内容が仙道敦子の声で作中の人に、私達に放たれるのがこの映画の山場、あそこはぐっときた。私が会長の妻なら遠慮して絵以外は見ずに返すだろう。そういうのを越えた行為の意義もあるのかということを考えた。

先の山場ののち、ケイコは弟のパートナー、仕事の同僚、最後には…と自分と違う言葉を使っている人達とコミュニケーションを取るようになり、一段駆け上った場所でまた日々を始める。もしかしたら彼女はノートを渡せる相手を待っていた、あるいはあの後にああして会長(三浦友和)に読んでもらうよう頼んだのかもしれないとも思う。

会長が口にしつつ考える挨拶文を妻が縦書きの便箋だかに書き留めるのにも(いまどき!と)びっくりしたけれど、これは自分の気持ちを言葉にして外に出すということについての話である。人によってその行為の意味するところは異なる。ケイコがなかなか出せない手紙と一緒にバスに乗る場面が面白く、また新しいジムでの喋るそばから文字になる器具にはそのタイムラグの無さに違和感を覚えたのかもなどと考えた(介護の際に使ったことがあるけど、始め奇妙な感じがしたのを覚えている)。そしてもう一人のケイコとも言える会長には妻がいる…見ながら演者の年齢差もあり妻の老後が心配になってしまったけれど。