猫たちのアパートメント


見るのが大変しんどいドキュメンタリーだった。猫=他者をコントロールしようとする映像が延々続くんだから(こんなにも「檻」が出てくる映画ってない)。それをするのは相手に死が迫っているから、死から遠い方が幸せだと思うからだが、「トゥンチョン団地猫の幸せ移住計画クラブ」(いわく「活動内容を表したくて名前が長くなりました」)を作って活動する女性は新しい家に引き取られる予定の猫をしつけながら「仲良くなれると嬉しいけど、猫は幸せなのかな」と涙を流す。彼女は「親が私を育てるのも大変だったろうな」と言うが、それにも通じるのであろう、他者の幸せのために何かをすることの困難、生けるものに対する気持ちによって起こる葛藤についての映画に私には思われた。

餌で捕獲し病院で去勢手術を施した猫が、団地に帰ってかごの扉が開くと物凄い勢いで飛び出し建物の中に戻っていく。猫が去ったあとに彼女達が置いておく餌をいれたお皿のカットが印象的で、まるで「供養」のようにも見えた。人間に置き換えても、どこにせよ自分から進んで入ったのであろうと出られないなら理不尽だ。そもそも「入れるが出られない」という場は人工物の他にそうそうあるものだろうかと考えた。開いている箇所から室内に入って出られなくなった鳥のために窓を開けてやった男性は「それでよかったのか」「『猫ママ』のなかには最後にと良い餌をやっている人もいるが、今後のことを考えると猫も野生の厳しさを知った方がいいのでは」と話す。

ラストカットは更地となった団地跡。空撮に始まって終わる作中には、最近なら『奈落のマイホーム』のオープニングにも登場したお馴染みの引っ越し用はしご車の働きぶりに始まり人の往来などを猫目線らしく撮っているものも含めいかにも適切な場面が次々と挿入され、相当量を撮影したのだろうと思わせる。固定カメラの映像は韓国のいわばCCTV文化も思わせる。再開発事業の中心だけがすっぽりと抜けており、猫も活動する女性達も大きな意思決定がなされる世界の真ん中から外れた場所にいるのだと分かる。これはそういう領域の物語と言える。

チョン・ジェウンの映画の特徴である文字による演出がないのは、人間が猫へ何かを伝えようとする際に文字は使わないからだろうか。監督の『子猫をお願い』において猫のくだりだけ私にはどうもよく分からなかったのは、彼女たちの間にあるものと人間から猫へのものが交錯しており掴みづらかったからだが、後者ばかりが存在しているこのドキュメンタリーはある意味とてもシンプルだ。どこを見てもそこに在るのは私達だと言える。

おかしな求婚


「“ほぼ”アメリカ映画傑作選」にて観賞、エレイン・メイ脚本監督の1971年作。

まごうことなきウォルター・マッソーのスター映画にして、あくまでも彼演じるヘンリー・グラハムが主人公の物語。彼がどんな奴かというほぼ一人芝居に冒頭かなりの時間が割かれているんだけど、マッソーでなければ気が遠くなっていただろう(それでなくても私にはぎりぎりって感じ)。gentleman of gentlemanたる執事の「結婚ほど容易な金儲けはない」とか何とかいうセリフに話が動き出す(考えたらその先についての言及は無いわけで、彼の言うことは作中通じて全て「当たって」いる)。

山岸凉子の『雨の訪問者』を読むたびに(終盤、主人公が帰宅した夫に着物を着せかけるコマを見るたびに)、こんな快適な条件の生活をしているのになぜ結婚するのかとじれたものだけど、それは彼女は私じゃないからなわけだけど、この映画のエレイン・メイ演じるヘンリエッタも好きなことをしながらの一人暮らしだなんてそこから結婚に至るどんな説得力を示してくれるのかと見始めたら、そもそもその暮らしとは彼女だけが大金をがんがん吸い取られる集団生活なのだった。この使用人達や真に彼女が好きなのかと思いきや金をむさぼりまくっていた弁護士などの金絡みの描写が、ロマコメにしては(ロマコメと見るなら)やたら現実的。

一方でヘンリエッタを殺す想像をしながらも庭のテーブルにつけば服の着方は大丈夫かとチェックしてタグを切ってやったり旅に出れば眼鏡にまで着いた蜂蜜をすすいでやったりするようになるヘンリーのいわば矛盾した状態は、ロマコメらしくも現実的に感じられる。おじに「歳を取った若者」と言われた男は映画の終わり、人生の日暮れに差し掛かってようやく「ぼくの体温を君に分けるよ」…すなわち「共有」を知るのだった。ここでの彼の、これまでに比べて距離の近すぎる彼女をまともに見られない目つきと彼を信頼しきって見上げる彼女の瞳の対比のよく出来ていること、屋敷に帰ってから二人で使用人達にどんな采配を振るのか知りたくてしょうがなくなって話は終わる。

Never Goin' Back ネバー・ゴーイン・バック


「うちらはこんなに頑張ってるんだから海に行ったっていいはず」。17歳の女子二人、アンジェラ(マイア・ミッチェル)とジェシー(カミラ・モローネ)が何を頑張っているのかというと、テキサスの寂れた町の一軒家、親はおらずダイナーの仕事のシフトを一回失っただけで立ち行かなくなるような暮らし。冷房や洗濯機は外で拝借、どころか水の確保すら危うい。「18になったら養子にしてよ、引っ越せるから」がジョークに聞こえない(尤もこのセリフを日本に住む私が聞くと、差別ゆえ養子縁組という形で親族関係を結ぶことを選択するケースに思いが至る)。

終盤の、妹と兄ダスティン(ジョエル・アレン)がたまたま…というのは面白い展開であると同時にクソの世界はクソだけで回っており外からの助けなんてないということを示唆してもいる。クビになったばかりの彼女達はホームレスの男性に1ドル渡すのに「外」の言うことときたら「お前らが盗み食いしたら損失補填で値段が上がる」。サンドイッチ屋で閉じ込められた辺りでああこれはと予想できることに、二人はそんな「外」から僅かな奪取を成し遂げてとうとう海に行くのだった。

冒頭二人が兄のPCの動画のgolden showerについて話したあと予約するつもりのホテルにつき「プールも浴槽も、それから海もある」と言うのにはそれ、どこでもおしっこできるじゃん!と思ってしまった(実際にするかどうかはともかく)。それは彼女達が「悲しい」という「男女のポルノ」のそれとは異なる自分のための排泄、あるいは「外」にちょこっと浴びせかけることのできるクソのおすそわけとも言える。しかし別のところで盛大にぶっ放すにはまだまだ辛抱が必要なのだった。

私としてはこの映画は大好きなドラマ『デリー・ガールズ』とネタがちょくちょく、舞台も何もかもが違うのに被っていたんだけども、あちらは排泄を我慢するのもドラッグ入りのお菓子を食べるのも「うちら」じゃない(正確にはうちらの仲間ではあるけど、ひねりがある)。こちらの二人はあの体に色んなものを背負わされすぎているようで見ていて辛かった。こんなにもしんどい状況では何かと引き換えじゃなきゃ「何でもない」とは言えないということかもしれない。

兄の友人ブランドン(カイル・ムーニー)にレジから金を取らせようとすると胸を触らせるよう言われ、触られる…というところに兄達が、という映画の作りにも表れているように、現実では少しでも立場の強い者が下の者を踏みつけているのに、本作における世界は極めて優しく「内」では人がクソなことをしないよう設計されている。そのことについてはのうのうと育った私は何も言う立場にない。ただ劇場で大きな笑い声をあげている客が怖かった。

不屈


中央アジア今昔映画祭にて観賞、2018年ウズベキスタン制作、ラシド・マリコフ脚本監督。ソ連アフガニスタンを侵攻した際に前線基地となったウズベキスタンの、アフガン帰還兵の物語。作中病院のシーンで視力検査表のうち一列がコリョマルというところにもソ連による抑圧のあとが。ちなみに作中の医師や公証人?など赴く先の専門家が全て女性なのは、男性が不足していたなどの理由があるのだろうか。

殺風景な住まいの朝、男は起き抜けに昨夜の何かを口にし外に出て犬に餌をやる、壁際に立っている「兵士」(後に誰だか分かる)に息子とはどうだと尋ねられ弁明の機会ももらえないと答える、このようなオープニングの映画は幾度も見たことがある、(『カーブルの孤児院』の前日譚である『狼と羊』を見た)前日には舞台が変われば物語が変わると考えたものだけど、世界のそこここに同じような物語があるのも事実だと思い直した。そうしたら犬の名前が「ランボー」。しかしあくまでも犬の名であって彼の名じゃない、ランボーにならない、なれない男の話であった。映画はカメラが引いていくことで男があまりに小さくなって終わる。

主人公サイデュラが公立小学校の教員となれば雇用形態が気になってしまう(あの年齢ならば「今」の日本なら4割の給料で勤めているわけだから)。一応「病気休暇」を取ることができるが、辞めると生活が立ち行かなくなるとの医者の言葉からして孫がいる歳でも生活のために働いているようだ。冒頭彼が登校した際に役人を追って出てきた校長の女性の、彼に気付いての足取りには二人が奥ゆかしくも憎からず思い合っている演出がなされており、後にそうと判明する。こんな枝葉は私にはじゃまに感じられたが、思い返せば、死んだ仲間の「ジーンズが似合う」(に違いない)妻の「英雄は死ぬ、なんであんたは帰ってきたの」には前線を知る者と知らぬ者の埋められない溝が表れており、サイデュラはそれを分かっているから好きな女性に心を開けないのかもしれないと考えた。

狼と羊


中央アジア今昔映画祭にて観賞。2016年デンマーク-フランス-スウェーデン-アフガニスタン制作、シャフルバヌ・サダト脚本監督。前回の同映画祭で見た『カーブルの孤児院』(感想)の前日譚なんだそうでこちらも面白かった。アフガニスタンの山間の村、『孤児院』が1989年の物語なので時代はその数年前というところか。

映画は黒い羊が少年クドラット(演じるのは同名の少年、『孤児院』の主役)の父親を弔うために共同体の男達によって殺されるのに始まる。その後の女達のおしゃべりや序盤の老人の「粉ひきと妖精」の話から、男にとって妻は恵みだが女には婚姻に意思はもちろん感情を持つ余地もないことが分かる。ちなみにこの映画には話を聞く、聞かせる場面が多く、それらが私にとっても子どもの頃は娯楽だったということを思い出させた(その形を変えたものがSNSなのかもしれないけれど)。

見ながら笑みが浮かぶ瞬間が何度かあった。ギャグやジョークによらず楽しい気持ちにさせてくれる映画というのは貴重なものだが、振り返ると本作のそれは全て、平素交わることのない、いや交わらないようにされている女子と男子が同様に楽しむ遊びの場面なのだった。衣服を膨らませて川を流れたり、じゃがいもを盗んで調理して食べたり。

川の場面では作中初めて女子の集団と男子の集団が接触しそうになり見ている私の方が緊張するが、レイヤーが違うかのように何事も起こらない。後で考えるにそこにはそうしなければという当人達の力が働いているのだ。そんな共同体のいわば裾野で、姉は「6歳で結婚」し遠方へ、父親は癌を患ったあげく死に母は再婚した少年クドラットと、「気味が悪い」と避けられている一家の少女セディカ(演じるのは同名の少女)が触れ合う。

お前の髪は炭の色だろ、お前のはうんこ色だろ、あるいは「きのう女を抱いた」「おれだって女を知ってる」と言い合ったりする男子の集団と、いわゆる嫁取りのままごとをする女子の集団(妙なリアルさにふとアラン・パーカーの『ダウンタウン物語』を思い出す)。少年は男子の集団に属しているが少女は独り。少年は大人達のすることを見るが少女は見ない。少女が紐を編んでいるのにそれを得意とする少年が目を留めて二人の関わりが始まるのに、『孤児院』でも男の子だとてそれぞれだということが描かれていたのを思い出した。

クドラットの境遇を聞き「かわいそうで涙が出る」と言う幼い少女を年長の…もう十代後半に見える少女が戒めるのは、そんなことに心を動かされていては生きていけないと悟っているからだろうか。映画の終わり、「武装集団」がやってくると聞きつけ村総出で家々を捨てて逃げながらの「他の村の人達もちゃんと逃げているといいが」とのつぶやきに、区切られた中で生きるしかなくとも人は「外」に対しての優しい気持ちを持つものなのだと思わずにいられなかった。

MEN 同じ顔の男たち


ハーパー(ジェシー・バックリー)の夫ジェームズ(パーパ・エッシードゥ)の「君が別れたいのはここ一年のぼくのふるまいであって、ぼくじゃない」にはなるほどと思ってしまった。私の知っている男性の多くが、「ぼく」という不変のものがありそれこそが大事だと考えていた節があるから(「愛」とは存在するだけで、すなわち言動から切り離されても価値があるとの考えもこれに似ている)。また終盤のある人物の「私に性欲を抱かせることが出来るのはきみの権力だ」という言説はこの世で最も有害な間違いだから、そりゃあ刺し殺さなきゃならない。

冒頭より私ならこんなところに一人で来ない、サンルームで窓を背にして座らないと思いつつ、そのそばから十分分かっている、親友ライリーが言うように「あなたが選んだ場所でなぜそんな目に遭わなきゃならないのか(戻ってくることなんてない)」と。こっちがあれこれ控えなきゃならない道理はない。そういう意味ではハーパーは私の代わりに挑んでくれる人、いや挑むなんて言葉は使いたくないな、正しくは普通のことを普通にしてくれる人であり、りんごを食べるのも、あのような「女らしい(=最も「舐められやすい」)」ワンピースを着るのもそれに通じているんだと思う。

序盤のハーパーと管理人ジェフリー(ロリー・キニア)とのやりとりを見ながら思っていたのは、昔から受け入れざるを得なかった不快な現実…このような嫌な男でも更に多大な嫌がらせをしてくる男が現れたら頼らなきゃならないということ。現実じゃ必ずそうなるし作中でもそうなる。その理由は、そもそも何らかの地位についている、もっと言うなら職に就いているのは男性の方が圧倒的に多く(ここでは女性警官も出てくるけれど)、また男性は男性が出てくれば引き下がるから。女性に頼ればその人も巻き込まれる可能性があるから。

MENは実際にそこここにいる加害者とハーパーに責を負わせる被害者ぶった男とのハイブリッドであり、そもそも嫌がらせしてくるやつが誰かなんてこちらとしてはどうでもいいのだから、顔が皆同じであるのは却って「自然」なこと、作品のノイズを減らす要素に思われた。最後のアレは「ぼく(ら)はこんなに辛いんだ」というアピールなので、ぐだぐだ長くてもしょうがないし私達は彼女のような顔で見下ろしああするしかない。

あのこと


主人公アンヌ(アナマリア・バルトロメイ)と親友ブリジットが男を求めての外出前に胸を大きく見せようと下着に細工しているオープニングが秀逸。女にも性の欲望があり(ない女も勿論いようが)、自身の体を性的に目立たせるのがセックスに近付く最も流通したやり方であると語ることで、だからといって妊娠を受け入れなきゃならない道理はないという主張がなされている。
アンヌがいつどこで誰とセックスしたか、映画を見ている私達に知らされないのも重要だ(作中一度だけはっきり描かれるセックスは、彼女の意思による、なるほどと思わせられる状況においてである)。『17歳の瞳に映る世界』でも主人公を妊娠させた相手について殆ど語られなかったものだけど、今妊娠しており中絶したいということこそ切実な問題なのであり、物語はそれ以外に無闇に焦点を当ててはならない。世の中はすぐそちらに目をやろうとするから。

ブリジットの「試験に落ちたら来年はトラクターに乗っている」とのセリフやアンヌの実家でのやりとりから、とりわけ労働者階級の出身である彼女達は大学生という立場を降りれば望まぬ肉体労働に就かねばならないのだと分かる。女子の脱落の理由は妊娠であることも多く、それにより学生の人数が年毎に減っていることも示される。
自称「世界一の耳年増」のブリジットは「毎晩いく夢を見てる」と実演して見せるが、彼女達にとってそれと表裏一体なのが、不安の表情で見ていたアンヌが自室で縫い針を手にする時の、「自己責任」の後にベッドで悶える時の顔なのだ。それを体感せずとも「知って」いるから、多くの女が欲望を実行に移さずにいる。冷蔵庫やシャワーを共にする女子寮での暮らしが「皆と同じ」でなくなればより厳しいものとなるのは一種の比喩であり、アンヌを目の敵にしているかのような同寮の学生らの言動はルートから外れることをとにかく恐れているからなのだ。

校医から電話帳で見つけた婦人科医、「流産」か「中絶」かを決定する医師まで、加えて文学部の教授(「女子はたいてい文学部」であって「文学部の学生はたいてい女子」ではないにせよ)、中絶経験者の女子と女子を繋ぐのも全て男。実際にはどうだったにせよ、これらの描写は当時から、今もなお、「選択肢がない」者は表に出られず連帯もできないことを表している。男の中には普通の者もくそな者もいるが、例え前者に「同情」されたところで腹の膨らみにはくその役にも立たない。中絶とは個人ではなく社会の問題であり、人生を選択によらず運に任せるしかないのがいかに残酷なことであるかが全編に渡って強く訴えられている。
アンヌは「他の女子がうるさいのは羽目を外したくてもそうできないから」、親友のエレーヌ(ルアナ・バイラミ)は「私は運が良かっただけ」と確認し、この出来事を通じて女同士の間に新たな繋がりが生まれるが、それはアンヌのあまりに、あまりに孤独な闘いに比すれば全く小さすぎる。