MEN 同じ顔の男たち


ハーパー(ジェシー・バックリー)の夫ジェームズ(パーパ・エッシードゥ)の「君が別れたいのはここ一年のぼくのふるまいであって、ぼくじゃない」にはなるほどと思ってしまった。私の知っている男性の多くが、「ぼく」という不変のものがありそれこそが大事だと考えていた節があるから(「愛」とは存在するだけで、すなわち言動から切り離されても価値があるとの考えもこれに似ている)。また終盤のある人物の「私に性欲を抱かせることが出来るのはきみの権力だ」という言説はこの世で最も有害な間違いだから、そりゃあ刺し殺さなきゃならない。

冒頭より私ならこんなところに一人で来ない、サンルームで窓を背にして座らないと思いつつ、そのそばから十分分かっている、親友ライリーが言うように「あなたが選んだ場所でなぜそんな目に遭わなきゃならないのか(戻ってくることなんてない)」と。こっちがあれこれ控えなきゃならない道理はない。そういう意味ではハーパーは私の代わりに挑んでくれる人、いや挑むなんて言葉は使いたくないな、正しくは普通のことを普通にしてくれる人であり、りんごを食べるのも、あのような「女らしい(=最も「舐められやすい」)」ワンピースを着るのもそれに通じているんだと思う。

序盤のハーパーと管理人ジェフリー(ロリー・キニア)とのやりとりを見ながら思っていたのは、昔から受け入れざるを得なかった不快な現実…このような嫌な男でも更に多大な嫌がらせをしてくる男が現れたら頼らなきゃならないということ。現実じゃ必ずそうなるし作中でもそうなる。その理由は、そもそも何らかの地位についている、もっと言うなら職に就いているのは男性の方が圧倒的に多く(ここでは女性警官も出てくるけれど)、また男性は男性が出てくれば引き下がるから。女性に頼ればその人も巻き込まれる可能性があるから。

MENは実際にそこここにいる加害者とハーパーに責を負わせる被害者ぶった男とのハイブリッドであり、そもそも嫌がらせしてくるやつが誰かなんてこちらとしてはどうでもいいのだから、顔が皆同じであるのは却って「自然」なこと、作品のノイズを減らす要素に思われた。最後のアレは「ぼく(ら)はこんなに辛いんだ」というアピールなので、ぐだぐだ長くてもしょうがないし私達は彼女のような顔で見下ろしああするしかない。