ショック・ドゥ・フューチャー


1978年のパリを舞台に、「Le choc du futur」として前進する若い女性の一日を描く。音楽については無知なので「楽しかった」くらいの感想しか持てないけど、「電子音楽の創生と普及を担った女性先駆者たちに捧ぐ」との文とその名の数々で終わる女性映画だった。

「インドへ行った男友達」の機材付きの部屋でいつものように目覚めて作業を始めたアナ(アルマ・ホドロフスキー)のところへ、男が三人続けてやって来る。「仕事を与えて『くれる』男」「機械を直して『くれる』男」「文化を教えて『くれる』男」。彼らに悪気は無かろうけど、ここには家事以外のあらゆる領域が男によって占領されていることが表されている(修理くらいは彼女がやれたっていいと思うけども)。何とも言えない息苦しさを覚えていたところへ、彼らに教えられたローランドCR-78と新しいレコードに突破口を見つけたアナが作業に取り掛かり、再びやって来た一番目の男に未来の音楽について熱弁を振るい、やっと息がつけた(その後彼女が一人外を歩くカットが挿入され、更に息がつける)。

夕方、部屋に初めて女性がやってくる。この歌手クララ(クララ・ルチアーニ)にアナはコーヒーと、後には葉っぱを振る舞う(ソファで「シャピシャポ」を見ながら笑い転げるシーン、コロナ禍の今見ると恋しさに胸が締め付けられる)。音楽談義や共同作業の際の二人をフラットに捉えた画の輝きよ。しかし晩に主催したパーティで、業界の権力者の男に自身の曲をパリじゃ売れないと否定されたアナは一気にやる気を無くしてしまう。その男に部屋に入るなり脱いだコートを渡された弁護士ポール(ロラン・パポ)が彼女を慰める。このキャラクターをなぜ男性にしたのだろうと見ていたものだけど、よく取れば彼女の叫びを引き出すためかもしれない。皆に聞いてもらうには自分一人の力じゃ足りないのだ、でもって必要な力を持っているのは男だけなのだと(これは女同士なら自明の理なのでセリフにならない)。しかしその後、別の女性との出会いでアナは回復し、夜明けにはポールを振って作業に戻るのだった。

見ていて気になったのは、作中の男達による性的嫌がらせに全く現実味がなかったところ。この問題は女を人間と見ていない土壌にあり、表出される言動だけをどうこうしても根本的な解決にはならないわけだけど、この映画のそれらの描写からは、根っこがないところに言動の草だけを立たせているとでもいう奇妙な感じを受けた。全編を通じて「普通の(=嫌がらせなどしない)」男性の想像の範囲内の苦悩しか描かれておらず、呑気さに満ちていた。それでもポールの「あんな奴(=あんなふるまいをする奴)に君の音楽が分かるわけない」とは、門外漢の慰めのようでそうでもないと私は思う。それが「今」だ。