もう、歩けない男


度々TLにも体験談として流れてくる、自身の属性が変われば世界が変わるという話。主人公アダム(アーロン・ポール)の出勤シーンが最初と最後に繰り返されるが、言動は「変わっていない」ながら後者の彼がエレベーターで見るのは他人の尻である(あれには映画を見た私達もはっとさせられる)。パーティでヴァギナのない奴らを集めろと言われ従う男と「あいつにはあるかもな(女かもな)」と馬鹿にされる男の二人(前者を演じるのはポール・ウォルター・ハウザー)が後にせこい商売をしている描写も、男社会で主役になれない者達がそういうところに活路を見出す時もあると初めて見えたということだろう。

オープニングの回想シーンにおける「すぐキレる子どもだった」というのがアダムの自身に対する評価。長じて「現在」、事故後に四肢麻痺となり帰宅して入浴、さて出ようとするも慣れない家族がもたもたするのに腹を立ててキレ、拒絶するのに「以降の人生」が始まる。食卓で始めから手助けする母親と「頼んでないのにするな」と言う父親、結局食べられないという現状のところへ介護士のエウゲニアが現れる。それは「独り立ちするために必要」な存在だった(しかし家族だってそりゃあそうなる、初めてなんだから。後に彼女が言うように「いい家族」なのだ。そして彼だってそりゃあああなる)。

世界のまさに中心に居たのが追い出され、辺境にいる者と初めて接することになる。シベリアからやってきた介護士の女性を過剰なロシア訛りの英語でレナ・オリンが演じるというのは、そりゃあ彼女はロシア系の役をやってきているけれども、実際そういう人物だったにせよ違和感を覚えた。更に彼女の「相手がよきと感じた時、自分もよきと思う」との教えを表すためにセックスが用いられているんだけど、この相手の女性の描写も酷く、容姿に目をつけられ強引に口説かれるのを喜んで受け入れるというのは(世界の中心は口説かれるんじゃなく口説く側のものだからね)人は完璧じゃないという話であっても採ってはいけないパターンだろう。部下のパートナーのことを「あのきれいな…」としか言わない上司(ジェフ・ダニエルズ)は「悪役」なのかと私は思っていたよ。