声もなく


「あの家じゃないか?」の後に私達が改めて見るのは、例えば「フロリダ・プロジェクト」や「万引き家族」のハイウェイや新幹線の線路の脇に顧みられることなく存在している家とはまた違う、木々に埋もれ通りからも見過ごされそうな小屋。テイン(ユ・アイン)がいかに社会から隔絶されているかが一目で分かり胸が痛くなる。
冒頭のレインコートの話や後のセリフで説明されるように彼が赤ん坊の頃から面倒を見てきたチャンボク(ユ・ジェミョン)も貧困のなか社会との繋がりは最低限で、テインには多くを望まぬよう言い聞かせている。卵の販売車を持つことを目標に祈りを捧げさせることしかできない。

この映画を特別たらしめているのは、誘拐された少女チョヒの描写である。しつこく感じるほど挿入されるその表情や仕草から、テインの妹ムンジュへの「お兄ちゃんに怒られるよ」からこっち、あるいはチャンボクの「家族は助け合わなきゃな」に応えて死体に土を掛けた時からずっと、彼女が自身の命運を握る大人の男の機嫌を伺っていることが分かる。
それは、娘が誘拐されても息子じゃないならと父親が身代金をしぶるような家庭(1995年のドラマ「砂時計」では70年代の出来事として描かれていたものだけど、50年後でも現実味を帯び有効なのかと思わされる)での躾があってのものだろう。しかし家事をし「秩序」を守ることで自分やムンジュの生活が快適になる、初めて「敬意」を受けたテインの喜びが反射して全員が楽しくなる、これらが同時に起こる。この複雑さは従来の誘拐映画にはあまり見られなかったものだ。

(以下少々「ネタバレ」しています)

汚れ仕事の雇い主やチャンボクがテインに裸の三万ウォン(日本円にして三千円弱)を渡すのは子どもへ小遣いをやるように映る。大人にとってテインは子どもだが、チョヒには図体の大きな彼がそうだと分からない。終盤、韓国の映画やドラマでお馴染みの乳飲料を貰いストローを刺して飲む姿にようやくこの人は大人じゃないんだ、自分を助けてはくれないんだと気付く(そしてその場で自身が飲み下さなきゃならないのは初めての酒である)。その後チョヒは彼を子どもと見做し、自転車の後ろに乗らずバスでは共に眠って肩を貸す。
保護者や社会により徐々に育てられることなくただ大きくなったテインはスーツや車、タバコといった象徴に触れることで一気に大人になろうとするが、それは叶わない。擬似家族で愛を知り「大人」の意味を初めて考え実行すると、翻ってそれまでしてきたことの意味が問われる。物語の終わり、彼は身につかなかったスーツを投げ捨てることで「子どものままの大人」へ、チョヒはお辞儀で「わきまえた女子」へと戻ることになる。そしてタイトル(原題同じ「소리도 없이」)。二人は、それからムンジュはどうなるだろう。