アイム・ユア・マン 恋人はアンドロイド


出会いの席でアルマ(マレン・エッゲルト)に「人が生きる目的は」と問われたトム(ダン・スティーヴンス)いわく「世界をよくすること」。そうインプットされたアンドロイドが彼女一人のために在るなんて変じゃないか。昨年のワクチン接種の予約に際し、平素皆によかれと思っているくせに身内が少しでも早く打てればと願ってしまう矛盾に直面した時の、情けないような恥ずかしいような気持ちを思い出しながら見た(私は政府とは個人にそのような思いをさせないためにあるのだと思う…とは話が少しずれるけれども)。

そんな矛盾が潜在するアンドロイドと過ごすとどのようなことが起こるか。アルマは自分、ひいては人間の矛盾に向き合うはめになる。「人類にとっては『宝物』だから発表すべき」研究であっても一番でなければ認められない、悔しい、研究生に申し訳ない。言葉にすれば「平凡で身勝手」な事情であろうと当人にとっては耐え難い辛苦がある。あるいは学習を積み重ねていくばかりのトムとは正反対に、子どもの生き死にまで時に忘れてしまう81歳の父親への気持ち。

真夜中の博物館でトムが「(神を認めようと認めまいと)飛行機が落ちそうな時に人は祈るものだ」と矛盾を肯定する言葉を口にした瞬間、アルマは自身を抑えきれずキスをする。それからセックス。その後、彼の「オルガスムってどんな気持ち」に彼女は「自分が溶けだして世界の一つになったよう」と答えるのだった。究極に個人的な体験が世界に繋がっているという感覚が面白い。

この映画は、私が十年程前からようやく思うようになった、パートナーとの関係とは閉じていていいものだろうか、世界に繋がっていないと無意味なのではないかというテーマも思い出させる。アルマが作中初めて笑うのは、訪ねてきた元夫ユリアンに対しトムが「ズボンを飛んで履いてくるよ…ってこの表現で合ってる?」と軽口らしきものを叩く時である。彼女はその後ベランダから、男二人が協力して大きな写真を運ぶのを楽しそうに見下ろす。第三者、世界の端っことの繋がりが心を生かし、浮き立たせているんである。

(以下少々「ネタバレ」しています)

アルマの実験への参加は、国の倫理委員会が様々な分野の専門家に秘密裡に依頼しているものである(ユリアンの引っ越し話も含め、研究者が資金に困窮していると察せられる描写もある)。学者は何をすべきか、それは私たち皆に敷衍することだが、人文学の必要性を謳っている映画だとも言える。終盤に彼女の声で入力される報告書の内容はこうだ…「アンドロイドをパートナーとすることに私は強く反対する。それは想像上の進歩(進歩だと想像しているに過ぎない進歩)であり、悲劇は将来やってくる。長期間アンドロイドと過ごした人間は自己を肯定しかされず、他の人間と交流しなくなる」。

アルマによれば「(アルゴリズムによって自分用に最適化されたAIは)自分の延長に過ぎない」。ゆえに道具ではなくパートナーとして扱うことをするべきでないと映画は言う。これは気持ちよく肥大させられた自我を切り離すまでの物語であり、アンドロイドというより特にラストシーンなどイマジナリーフレンドもののようにも見える。その一方で、二度目の出会いの場面からして描かれるそこに確かに居る何者かの存在や、アルマの過去の「トム」の存在が、割り切れないロマンを漂わせている。