脱走


(以下、結末に触れています)

ドキュメンタリー『マダム・ベー 脱北ブローカーの告白』(2016年韓国)の、ようやく辿り着いた大都会ソウルの空撮に「共産主義の蛮行を忘れてはいけません」というプロパガンダの声が重なる演出は忘れ難い。北から来た人々に対する差別の根がそこかしこにある。だからこの映画で聞ける、軍事境界線に流れる南からのアナウンス…あれは実際ああいう内容のものがああいう感じで流れているんだろうか…には、今の日本が失っている建前の大切さを思った(そもそも日本がその境界線に関わっているわけだけども)。本国の観客はああした描写や、ギュナム(イ・ジェフン)が手を伸ばす先に光と共に登場する南の軍人達の姿につきどう思ったのだろう。

南のラジオから流れるテーマ曲『楊花大橋』にのせての回想シーンで、ギュナムには今や失うものがないと分かる。彼が脱走するのは「失敗する機会を得るため」で、ロールモデルは極地探検家のロアール・アムンセンだ。対して部下のドンヒョク(ホン・サビン)が脱走するのは南に最愛の存在である母や妹がいるから。更には選択肢がない中でこれが正しい道なんだと周囲を巻き込んで…それは一人でピアノを演奏するのとは真逆の行為に思われる…証明し続けながら生きるのがヒョンサン(ク・ギョファン)だ。最後に対峙した際の「ピアノヒョンも好きなように生きるんだ」とはギュナムの本心だろうが、少なくとも異性愛者ではないヒョンサンはギュナムのようには「好きなよう」に生きられないわけなので、当初この役が異性愛者だったと読んだ時、それならこの役はずいぶん違ったなと考えた。