ぼくの名前はラワン


「耳が聞こえないのは世界中でぼくだけ」と思っていたラワンがイギリス手話という言葉を得て自由になり成長し、「ぼくが国外退去になっても(ろう学校の)友だちは残る、だから行くんだ」とイギリス手話法案集会に出向くまでになる。7歳まで誰ともコミュニケーションが取れなかったというソフィの「地球を諦めないで」とは先生が生徒に言える一番の言葉かもしれない。

「過酷な旅の果てにこの地に着き安心だと思ったけれどそうではなかった」というラワンの母の言葉、難民を描く映画はおよそこれに始まる。移動が終わっても苦難や努力に終点はない。ラワンにとっての旅は、彼が王立ダービーろう学校のソフィ先生の前でイギリス手話で語ることで初めていわば形を持つ。また「あなたはサバイバーだ」と教えられ初めて自分を表現する概念、言葉を知る。前の章のタイトルが「選択」、この章が「サバイバー」であることから、このドキュメンタリーが徹頭徹尾ラワンの視点で作られていると分かる。国外退去を嘆願でもって却下させたダービーの住民達が映らないのも彼が与り知らなかったからだし、冒頭はくぐもっている、すなわち「あるはずのものが掴めない苛立ち」に世界が包まれていたのが次第にクリアになる音の演出も彼の成長に沿っている。

この映画にはまず、言葉を得ることで何が得られるかが描かれている。自分の言葉で何かを語るだけでなく、今はこの話はしたくないという選択もできるようになる。自分にとって言葉とは何かというクラスでのスピーチをラワンは当初拒みカメラの前で話すが、しばらく後には皆の前で、というか皆と一緒にスピーチする。日本語字幕のおかげで見ている私が彼の発言に笑うことができるようになる。国外退去通告への不服申し立てに出向きイギリス手話法案集会に参加する。言葉の権利のために言葉を使うようになる。

作中二度目の国外退去命令が却下されたのは「ラワンのイギリス手話が十分に熟達したと判断されたから」だとあったが、国が危険だからと亡命してきたのに言語の熟達度が査定に関係する理由が私には分からない(そもそも「学芸会」が査定の場になるなんて)。両親は彼の口話選択に当惑しているので、当初ラワンと兄は階段をのぼったところやドアの脇といった家の中でも「ふちのほう」で手話を練習しているが、次第に外で使うように、やがては両親が居間で、外の教室で、公園で手を動かすようになる。イギリス手話が公用語として権利を得た後にはラワンの両親が抱いたような不安も世から減るのではと願ったけれど、どうなのだろう。