クリスティ


アイルランド映画祭にて観賞。2025年、アイルランド・イギリス、ブレンダン・キャンティ監督作品。出演しているKabin CrewのSound of the NorthsideのMVが流れるエンドクレジットにあったかく楽しい気持ちになった。

時に口元へ持っていく母の形見のペンダント、毎朝きれいに剃りあげる髪、その他は黒いゴミ袋一つで里親の家から追い出されたクリスティ(ダニー・パワー)は生まれ故郷コーク郊外のノックナヒーニーに12年ぶりに帰り、疎遠だった兄のシェーン(ディアムッド・ノイエス)の家に期間限定で迎えられる。これはあと二週間で18歳という「(里親に)敬遠される年頃」の彼が、誰の誕生日もめでたいという世界に根をおろす話である。

クリスティが外へ出ると早速ティーンエイジャー達が声を掛けてくる。皆で草むらに座って飲んだり食べたり、レオナ(カラ・カレン)が廃車のものらしき椅子を背にしているのを面白く見ていたら、ここではあちこちに家から持ってきたような椅子が置いてあるのだった。ロボット(ジェイミー・フォード)の母とクリスティは塀の外のベンチに並んで彼の母親の話をするし(「ドラッグで儲ける奴らは責任を取らない」とのセリフに実感がこもっている)、クリスティを心配するシェーンは火祭りの晩のカウチに皆と一緒の弟を見て黙って帰る。

外をぶらつくクリスティはすれ違ったクレア(アリソン・オリバー)をやり過ごせない。女性用の施設は見つからないという薬物依存症の彼女は寝袋で寝るとき隣にいてくれと言う。もしかしたら初めて人に必要とされたかもしれないクリスティは朝までそこにいる。その後はロボットの誕生日の散髪を切っ掛けに、その母の経営する美容院の穴埋め(「ジャッキーがまたいなくなった」とのセリフには彼女自身のように女達が今でも男について行ってしまうことが示唆されているのだろうか)から「クリスティ・スペシャル」なる髪型が流行るようになる。現実ではそうでもないが映画ではなぜか美容院は「男女」どちらかの場であることが多いが、この小さな美容室には誰もが来る。

兄のシェーンは自分より帰りの遅い妻のステイシー(エマ・ウィリス)に夕食のボロネーゼを出すのに登場するが、二人の子である赤ん坊の寝かしつけも、後のバーベキューの場面で判明することに料理も全く上手くはない。施設を出て家庭を築いた彼は近所で唯一の「父親」であり、家族と話をすることも知らない。カウチを外に出して誰でもどうぞというステイシーとは違いキッチンで自分の椅子に座っているタイプで、弟より不器用なのだと分かってくる。映画の終わりに初めてなされる母親の思い出話は二人のいわば門出のようで、シェーンも変わるのだとじんとした。

イート・ザ・ナイト


「英語の先生じゃなく進学指導の先生と会ってた、うそをついたのは将来のことを考えたくないから」という、短編『アフター・スクール・ナイフ・ファイト』(2017年)の登場人物のセリフは忘れ難い。その後に本作を見たら、その他の作品は分からないけれど、快適で安全だがずっとはいられない場所から出て行かねばならないという全く同じ話であった。先の学生がそれでも進学指導を受けているのが肝で、押し出されてしまう若者は皆それぞれのやり方で対処する…と思って見ていたら、この映画は出て行けたのに出て行けなかったあれという比喩に終わる。

MMORPG「ダークヌーン」のサービス終了は「市場の変化による」と作中わざわざ説明される。利用者がそこを出て行かねばならないのは自分ではどうしようもないからであり、かつて妹アポ(リラ・グノー)にゲームを教えた兄パブロ(テオ・ショルビ)は今ではそれとは真逆の、全てが自分次第だと思える「自分で作って自分で売る、上司も定時もない」ドラッグディーラーとして生計を立てている。妹がアバターで自由自在に動き回るなら兄は実際のバイクでスピードに賭け、妹が「日に100人殺す」なら兄は実際に暴力をふるいふるわれる。そんななか手を差し出してくれたナイト(エルバン・ケポア・ファレ)と出会って愛し合うようになり、三人のカウントダウンが始まる。

兄妹とナイトの三人が実際に揃う機会はほぼ無いが、互いの中には常に互いがいる。「シマ」を荒らすパブロを痛めつけた男の家に忍び込んだナイトのつけた火をアポが消すくだりの優しいこと、ある意味あれこそがコミュニケーションである。男がナイトの残した優しさにこそ憤ったのは自身が発揮するはずのそれが侵されたとでも感じたのだろうか。いずれにせよあの家の病人は、パブロがアポに(大好きな相手にしかやらない『きょうはなんのひ』方式で!)贈ったパソコンを踏み潰して壊した父親のような父親、あるいは祖父ではなかったのだろうと考えた。

世界の果てまで3キロ


EUフィルムデーズにて観賞、2024年ルーマニア、エマニュエル・パルヴ監督作品。

17歳の青年アディが電気を点けずにいた部屋が父親によって照らされた後の場面がまず辛い。服をひん剥かれるなどされるわけでなくとも、両親や警察など大勢の大人に取り囲まれての診察は日常的な照明の光さえ暴力的に感じられる。「それまでどこにいた」「携帯紛失にいつ気づいた」といった質問の畳み掛けに母親は「大丈夫?」と口を挟む。しかし彼女含め大人達は彼の肉体的な傷も気にかけず、翌日背中に薬を塗るのは親友の女子イリンカだ。

当人の関与しないところで村の男達はそれぞれの権力と立場でもって牽制や取り引きをし合う。実際のところ目的は一つ、同性愛者の存在を見えないままにしておくことだ。アディに暴力をふるった兄弟は理由を「奴はアレ(英語字幕はfagot)だから」とはっきり言い、地元の有力者である父親も警察も誰も、それについて何も呈さない。警察の一人は食べながら調書を取る。診察からアウティング、治療、事情徴収など本当に辛くてトリガーアラートが必要だと思った。

それならここにはいなかったことにしよう、というのがこの映画の結末だ。それは二人が去った浜辺が残る固定カメラのオープニングとアディがボートで村を去る後ろ姿のエンディングの対比や、自身を映した後にそれを消す鏡に表れている。中盤軟禁された彼が両親の目を盗んで逃げようとするくだりには昂ぶりがあるが、村の皆の合意で発つラストは空虚だ。彼の傷も世界の歪みも何もかもがどうにもなっていない。トークによると監督はルーマニアのある村で男達に暴行された女性の側が非難を受けた事件に触発され、内容を変えることで「当事者(属性?)でないからこそ社会的な構造を訴えられた」と語っているそうだが、妥当なやり方だろうかと思う(事件の書き換えではなく、当事者のずらしというようなことにつき)。だからこの映画には意見が持てない。

冬よ さようなら


EUフィルムデーズ クラシック・セレクションにて観賞。1988年ドイツ、ヘルケ・ミッセルビッツ監督作品。

ベルリンの壁崩壊直前の東ドイツ、映画は監督のスタート地点である踏切に始まる。救急車の中で生まれたそうだ。ドキュメンタリーを、対話のそれを作るわけなのでまずは作り手が自身について語る。駅を発ち、列車で旅をしながら女達と話す。海に近づいているようだと思ったらゴールはバルト海、船上でジャニスの歌うSummertimeが流れて終わる。

『美しく、黙りなさい』(1976年フランス、デルフィーヌ・セイリグ監督、感想)もそうだったように、のっけから広告会社の幹部である40代の女性が列車の窓際で話す顔が延々と映る。男向けじゃない女が自分について喋る姿を見るのは楽しい、制作公開当時は今より更にその機会は少なかったことだろう。練炭工場で煙突が詰まらないよう叩いて回る女性が仕事の後にシャワーを浴びる姿だってそうだ(最近これと近いものを見たんだけど何の映画だったか思い出せない)。

SNSは女性差別の話題ばかりと言う向きもあるが、女が人生や暮らしを話せば自然そうなる。表彰式に出向いたら女は自分だけだった、子どものころ弟は遊んでいたのに自分は日がな働かされていた、更には監督が人形修理の店で訊ねる「赤ちゃん人形は『パパ』とは言わないのか」。妊娠したため結婚せざるを得なかった女性の中には離婚した者もできなかった者もいる。後に若者達が集っている場面が不穏に見えたのはこのためだ。女にはどこにも陥る罠がある。

監督は私の母親と同い年なので、「不安と希望を感じる」という娘の世代とは国は違えど私の世代のことだろう。列車内で結婚や夫婦の姓について話す四人は丁度私くらい、髪を盛大に立てながら家や学校について話す二人は少し上。別れ際に高架を歩くところへ声を掛けると「ハワイへ行く、うそだけど、よその国には行ったことがない」。手を繋いで線路をゆく「楽しいね」が最高だった。一緒だから、行先が決まっていないから…後に再会した時の状況と真逆であった。

上映後のトークによれば、ヘルケ・ミッセルビッツいわく上の男性達に企画書を通すのが大変だった、パイロット版を求められ児童保護施設を経営する50代の女性のパートを提出したと。実は見ながら彼女への言葉のみ、例えば「人生には男の優しさだけじゃなくエロスも必要ですよね」といった、言うなれば男性に寄せた内容が浮いて感じられたので納得した。尤も相手が普通に自分の考えを返す様子には、却って彼女の確固さとその場の信頼関係が表れていたが。

アロイーズ


EUフィルムデーズ クラシック・セレクションにて観賞。1975年フランス、リリアーヌ・ド・ケルマデック監督作品。アロイーズ・コルバスの絵を講義で取り上げる年配の男性が「男性の描写には嘲笑と冷酷が見られる、彼女の熱狂的な愛を拒んだ相手への…」と話すと学生が挙手するが後でと遮られる場面からの、アロイーズ自身が美術館で自分の絵を見て話しながら歩く姿が最高に…うまく言えないけれど優しく素晴らしかった。

冒頭まず女性の日常が描かれる。新聞片手にトンネルや飛行機といった「大きな」話をしつつ、女が引いた椅子に掛け女が作って盛った料理を口にする(あげくに文句を言う)が女の方は見ない男達の食卓など私だって死んでもつきたくない。アロイーズ(イザベル・ユペール)は喉が痛いと断って上った二階で朗々と歌い声を響かせたものだ。後に自分で生計を立てていたドイツからスイスへ戻らねばならなくなった彼女が「戦争なんて知らない」と激しく嘆く時、あの男達は新聞をどんな顔で読んだのだろう。帰りの列車内の軍服姿の男達ははしゃいですらいるような感じだったけれど。「大局観など怖くない」と言いつつ上着の襟で自身を掻き抱くアロイーズの姿が心に残る。

そして、その中に生きるアロイーズの困難が描かれる。冒頭楽譜を買いに行く店で赤子を抱えて降りてくる店主やなかなかのアドバイスをしてくれる(が彼女はこっそり抜けて帰る)盲目の歌の教師など、音楽の世界は風通しがよく見える。しかし音楽は世間的にはせいぜいが「女の嗜み」、父いわく「意味のない」もの、アロイーズにはずっとは居られない場所であった。教会で自分の声が紛れてしまうとの不満から、彼女の生涯の望みが自分一人の声を響かせることだと分かる。しかし教会での歌の目的は自己表現でなく「神に声を届ける」こととされ、やがて「神に全てをゆだねればドイツ民族は繁栄する」との説教がなされるようになる。

戦争する者は人殺しと今で言う一人デモをする辺りからアロイーズ(長じてデルフィーヌ・セリッグ)の声はあからさまに遮断されるようになるが、新しい院長が「ここでは人々が色彩を作る」と言う精神病院のゴミ箱の紙に彼女は新たなアートを生み出す。時が下って「プリーツスカートが膝丈になった」時代の女性がアロイーズの、自分の声を響かせたいという願いを叶える。院内で、特に交流などなくとも、アイロン掛けを担当していたアロイーズが絵に注力するようになると他の女性が不得手ながらもアイロンを掛けるようになっていたのが面白かった。そういう優しさ…というのもそぐわない、人の、普通の気持ちが枯れることはない。

ビューティフル・ガール


EUフィルムデーズ クラシック・セレクションにて観賞。1969年リトアニア、アルーナス・ジェブリューナス監督作品。

私には母親に片思いする女の子の話に思われた。母親とて娘を愛しているが、暗い窓辺で自分を待っている彼女に帰るなり「今日は誰か来た?」、これから来るかもと鏡に向かう。おそらく男を待っている。「ママをよく見て、美人だと思う?」「分からない」「もう分かっていいはず、美人じゃない」なんて話をする時、二人は作中最も切実に顔を見据え合う(しかし私には作中の「美」が全く掴めずこの辺りはよく分からなった)。インガは母親がタイプライターの仕事の稼ぎで買った梨?を食べるのを控え、横たわる母親の胸元に飾ってやる。二人で完璧なのに、ママはお姫様なのにと。

恐怖の音楽と共に登場する微動だにしない黒犬は、溺れ死んだ主人をいつまでも待っている。インガにとってそれは違う形の母親であった。待つのをやめて幸せになってほしいと願う彼女の手からは食べも飲みもしないその犬が、新入りとは散歩に出掛ける。その才に惹かれた彼女は後を着いて回るが拒否される。ここではタバコが他者を寄せ付けない、あるいは困惑のしるしのように使われる。新入りが助け出した取り壊される住宅に置き去りの犬の顔を不細工だと言い、お前の方が不細工だと返されたインガはショックを受ける(これも私にはよく分からなかった)。

待たないか、待つなら何かが結実するかでなければ人は救われない。脚を覆った長ズボンで「男の子か女の子か分からない」と言われる新入りは、待っていれば花が咲くと宣言したほうきを皆の目につくよう窓辺に飾る。インガは鼻をおしつけガラス越しに見、インガのことが好きなヴィクターは彼女のためにそれを手に入れようと引き換え用の宝物持参で部屋を訪ねる。適切な大人の意見におされ、新入りは初めて他の子を内に招き、彼らのささやかな気持ちはインガに届く。それがインガを経て母親に伝えられた最後には、外に出るたび胸に染みた女の子どもの小ささが少し忘れられた。

サナトリウム


EUフィルムデーズにて観賞、2025年アイルランド、ウクライナ、フランス制作。アイルランドのガー・オルーク監督がウクライナ、オデーサ近郊の塩湖に面するサナトリウムの2023年の夏を収めた作品。ソ連時代に建てられた施設の現在の稼働率は20パーセントもいかないというのが、夜の宿泊棟の明かりのぽつぽつ具合からうかがえる。カレンダーや植物、パソコンやテレビなどは新しいが医療器具が古いのはまだ使えるからだろう。傍らには砂時計。

上映前のメッセージ映像で監督が「普通の人々が非常時にどのように暮らしているかを伝えたい」と話していたが、彼らの日常を直接ではなくその話や様子から垣間見ることになるのがやはり「映画」なわけで、泣いて止めたのに前線に出て行ったという夫を亡くした女性の「村にはもう身障者の男しかいない」に複雑な気持ちになっていたら、後に高齢女性達のガールズトークで「爺さんでも見るとむらむらする」「村で女が菜園や家畜以外に見るものなんてある?」。ウクライナの女性の暮らしが見えるようで見えない面白さ。

恋愛や性愛を押し付けられるこの社会においてそれら、とりわけ異性愛を描くのは時に暴力的だと言えるが、例えば戦時下の物語であれば恋愛を、それこそキスを描くことが抵抗めいた描写となる。同様に家庭に入りたいと不妊治療に訪れる女性や交通事故の後遺症治療に加えて結婚相手探しも目的だと話す男性の姿がここで取り上げられるのには、通常とは異なる意義がある。独立記念日に医療主任の女性が宣誓のごとく言うように「子どもや孫のために自由を求めて闘っている」のであれば。

登場する人々はほぼ肌をさらしている。戦争で負った傷もある(内部も傷ついている)。ケアを受ける時、人は無防備な姿になる。加えて灰色の煙や空襲警報のもと水着一枚で年々水位が下がっている足首程度の深さの泥に浸かるだなんて、支配人の言うように「来てくれるお客たちは勇敢だ」。彼を始め従業員の方はといえば郊外の施設から爆撃される恐れの高い自宅へ帰るのが日常だ。リミナルスペースがテーマの映画が幾つも撮れそうな場所が人の意思で満ちている、こういうの、あまり見たことなかったなと考えた。