高校2


フレデリック・ワイズマンの足跡 1967-2023 フレデリック・ワイズマンのすべて」にて観賞。「クリントン中流の黒人に支持されてる」「生まれたばかりの赤ん坊はコーンヘッズ」なんて生徒達が喋っている頃のアメリカが舞台(制作は1994年)。

220分のドキュメンタリーはデボラ・マイヤーが職員生徒集まっての場でCentral Park Eastについて、すなわちここがどのようにデザインされた学校であるかを語るという、知らずに見ていたなら種明かしとも言える場面に終わる(彼女が話し始めるや隣の人がお手洗いに立ち、帰って来てからはそのまた隣の人と喋っているのが面白い)。構成の妙なのか私の先入観なのか、現場では絶えず同じこと、同じ努力が続けられているに違いないのに、学校教育が現実の厳しさのうねりから逃れようとしているドラマが見えた。

映画はロドニー・キング事件について語る白人生徒とそれを引き出す教員らの姿に始まる。次いでインターンシップの報告を聞く教員、授業をさぼる理由を聞き出す教員、特長である少人数授業での指導を含め学校のあらゆる場でほぼ一対一で行われている対話の様子からは、生徒が持てる全てを駆使してその場に臨んでいることが伝わってくる。在学中に妊娠し15歳で出産、復学した女子生徒や、18歳で既婚で子どもがおり働きながらの通学を再開した男子生徒の口から、女子が妊娠を誰にも話せず出産に至ったという事情が語られるのを聞いて、ここで行われているのは、授業以外は「既に起こったこと」への対処のための話し合いなのだとふと思う。その目的は非暴力であり、それによって実現されるのがデボラ・マイヤーの言うpolitical citizenの育成なんだろう。それと教育をイデオロギーの道具として使うこととの間には広く曖昧な領域があるとも語られる。

しかし様相が次第に変わってくる。映画の半ば、学年やカテゴライズを超えた授業の是非についての教員達の会議の場面が「生徒が大学に行けなかったら?行ってもやめるはめになってしまったら?現実を踏まえなくては」といったような発言で終わる。続く専門家が担当教員を集めての、教育委員会が潤滑剤ありとなしの二種類を提供したというコンドームを配布する授業のレクチャーでは、教員が「説得」するしかない状況もあるということが示唆される(1994年とはそういう時代だったのか、避妊よりも感染症の危険ばかりが言われ、今の目では妊娠の可能性のある女性の体の負担についての配慮が皆無のように見えてしまう)。授業をさぼる生徒への「先生が正しい!」、レポートを提出しない生徒への教員二人と母親による叱責などが続き、奇妙なことに笑いが込み上げてくる。抑えつけられているものへの同調、つまり苦しさから逃れるための笑いなのか何なのか、分からないけどよくないなと思った。