世界のはしっこ、小さな教室


少なくともドキュメンタリー「映画」(劇場公開されるものでも、配信のみのものでも)では昨今珍しくなった、被写体の誰でもない声のナレーションが、都会から赴任地へ向かうサンドリーヌに被せて「かの地もブルキナファソだから」と語るのに勝手にそんなことをと引っ掛かったけれど、見ているうちそれは彼女の内にある言葉だろうと思わせる。ブルキナファソの新採教師は国内各地に6年間赴任する慣わしがあるそうで、校舎に壁が(完璧には)なく用意された住まいに水も電波も届かないと知った彼女は「最初から大当たり」と笑う。シベリアのスヴェトラーナは「エヴェンキ族の誇り」を伝えるのを第一の目的として遊牧民のキャンプ地をソリで移動し続け、バングラデシュのタスリマは一家の中で教育を受け自立した唯一の女性としてモンスーンで水没する北部の農村でボートスクールに勤める。

公式サイトによると「よりアクセスしにくくより複雑な場所で職業を実践することでより多くを伝えられる」というテーマを掘り下げたいと思っていた監督が映画『世界の果ての通学路』(2012年フランス)のプロデューサーと出会って企画が始まったのだという。『世界の果ての通学路』の感想を見返してみたら、原題『学校へ行く途中』もオープニングに出る文も彼らにとって彼らの通学路は「世界の果て」なんかじゃないと言っているのだから邦題が合っていない、しかしながら画や音楽にちょっとしたモンド感を受けたともあった。こちらにはそうした空気はないが観客を先導している感はあった。ともあれ子ども達が移動していた「通学路」に対し先生達がやって来る「小さな学校」という対照的な図になっている。

サンドリーヌは五つの言語が飛び交っている(と知らずに来た)教室で、いわば「やさしい日本語」的なフランス語(公用語)でそれを一人だけ解する子に通訳を頼み授業を始める。「私は(名前)です」の勉強で友だちに教えてもらおうと言うとその子の名前まで真似してしまうというのが、その後の対応含めて「あるある」で笑ってしまった。この経験そのものがあるというんじゃなく、このドキュメンタリーの授業風景の数々には学校という場の基本が収められているように思われた。ちなみに彼女が皆に気を配りつつ元気いっぱい…に授業しているようで自棄にも見えると思っていたら場面変わって「成果が出ない時もある」と話し始めるのには、そういうことあるよねと思ってしまった。

サンドリーヌがいわば学級開きの前に生徒達の名前を覚える姿には『12か月の未来図』(2017年フランス)を思い出した。尤もあの先生は初日に移民の生徒の名前が読めず勉強するわけなので、私の大好きなドラマ『ブラックドッグ』(2019年韓国)の当該場面の方が文脈としては近いだろうか。タスリマが出席を取る姿にはその行為の本質を見た。またサンドリーヌとスヴェトラーナはそれぞれ我が子を家に残してきており、娘を寄宿学校に預けている後者は「時に私はここで何をしているのかと思う」と話していたけれど、これもまた教員「あるある」、というか教員の子が親に言われる「あるある」だなと思った。