12か月の未来図


全ての(愚かでも未熟でも…とは保身のためにそう書いておくんだけれども・笑)心ある教員の姿がここにある、とも言えるが、これは誰かが未知のものに触れることによって社会はより良くなるという話である。人を人とも思っていなかった主人公が他の世界を知ることで、彼が心の底に持っていた人間愛がきちんと機能し始める。

映画は名門アンリ4世高校の国語教師フランソワ・フーコー(ドゥニ・ポダリデス)が教室で(窓辺で、生徒達じゃなく外に向かって)ラテン語の詩を読みフランス語に翻訳するよう指示する姿に始まる。その後の作文返却の様子には、ブルジョアの、あるいは教育者の陥りがちな傲慢な態度が大げさに表されているようだ。中盤彼が学習性無力感を知らないと答えるのも(そんなはずはないので)「言葉を知っているだけでは知らないのと同じ」と言っているのだろう。

授業初日に移民の生徒達の名前が読めず自宅で写真と突き合わせて覚えるのは「あるある」だが(私も留学生の名前がなかなか覚えられない、あんな写真が揃っているんだから羨ましい・笑)、名前に続けて「席を移動しなさい」なんてセリフの練習をするのには笑いつつ偉いなあと思った。教師とは役者でもあるとはよく言うけれど。ちなみに冒頭フランソワの母親が東京を北京と間違えるのは、人は基本的に外の国に関心がないということの表れに思われた。

初日は「静かに」「静かに」と相手を踏み付け自分の指示だけで通していたフランソワが、試行錯誤しながら対話を行うようになる。宿題を出すと「むり」と言われて「なぜ」と返したり、「問題児」セドゥの「トイレに行きたい、母の名にかけて」を文法的に取り上げて親しみを抱かせるつもりが彼の尊厳を傷つけて大失敗したり、そんな繰り返しで毎日が過ぎていく。邦題通り彼と生徒達の12か月を描いているこの映画には、学校が休みの間の描写が一切無い。

「私には野望がある、君達に本を一冊読んでもらう」。「レ・ミゼラブル」に興味が湧かない生徒達のために、フランソワは教卓から本を払い落とすパフォーマンスをしてみたり「ゴシップ」として提示してみたりといわゆるスキーマの活性化をする。しかし私としては一人一人に本を放って渡しながらの「大切なのは中身だ」がよかった、私も自分の本の扱いはひどいもんだから(笑)

そんなものがあると知らなかった、「多い時には日に三度も開かれる」というフランスの指導評議会。これを扱っている映画を見たのは初めてかな、監督の力が入っている。このくだりではフランソワの、(学校にこそ蔓延してしまう!)先例主義、事なかれ主義とのちょっとした闘いが描かれる。現実は映画のようにうまくいかないけれど、彼が「新入生」を迎えての「とてもよかった」には涙、涙、涙(×100)でしょう。

フランソワが要職の美女ら(教育大臣含む)に鼻の下を伸ばして仕事を引き受けてしまうなんて冒頭よりの描写含め喜劇ふうだが、セドゥが好きな女子生徒の気を引くのに叩いたり足を引っかけたりすることに対する彼の指導の描写はもっと厳しくしてほしかった、大きな問題だから。