「フレデリック・ワイズマンの足跡 1967-2023 フレデリック・ワイズマンのすべて」にて初日に観賞。
『チチカット・フォーリーズ』(1967)の、ここで終わると予想する楽しみを与えないラストに少々びっくりしていたら、続く翌年製作のこちらのオープニングではオーティス・レディングが挿入歌のように流れる。学校が映る最初のショットがロッカーの並ぶ廊下なのには、この日初めて見たこの映画が数々のアメリカ映画の答え合わせであるかのような奇妙な感じを覚えた。
前作同様、組織において権力差のある二者のやりとりが描かれる。体育の授業では体育着を着ろ、先生が待てと言ったら待て、卒業パーティでミニスカートを履くななどと理屈の通らないことを押し付ける教師に対し、生徒達は粘り強く言葉で抵抗する。矯正院では「出さないぞ」だったのが(最初に登場する収容者は「むしろここにいた方が」と言っていたけれど)こちらの決め台詞は「停学だ」。ちなみに私もいまだに年に一度くらい体育があるのに体操服がないという夢を見る。高校の時は体育をさぼって他のクラスに堂々と潜り込んでいたくらいなのに不思議だけど、体操服は世界共通の抑圧の象徴なのだろうか。
教師と生徒の他、学校特有の、保護者という子どもにとって権力を持つもう一方が加わってくるのが面白い。私は勤務している学校の性質上保護者に会うことがないが、この三者の関係ほど権力のシステムにおいて微妙なものはないと思う。父親に馬鹿にされる女子生徒に管理職の教員が「最後に聞こうか、父親にあんなこと言われてどう思う」と尋ねていたのが心に残った(彼女の返答から馬鹿にされることに慣れ切っているのが伝わってきて悲しくなった)。終盤には生徒だけで学校について話し合う場面が挿入される。中には「あの先生は学校を代表して言っているのだ」と学校側に立つ者もいる。
時は1968年、「黒人が半数以下の会に参加できるか」「それでは白人と黒人が半々ならどうか」などと挙手を募っての話し合いが行われている。男女別に行われる性教育では、女子にはピルについて、男子には「責任が取れないならセックスするな」と教えている。家庭科の授業の脚が太くても服装や歩き方できれいに見せようといった内容は今の感覚ではピルの話と全く方向性が違うようだけど、女子は自分の体を意識すること、男子は女子について学んでいるといった印象を受けた(「旧約聖書に女は殆ど出てこないがユダヤ人の家を仕切ってるのは誰だ?女性が『大蔵省』だろう」)。それじゃあ男子は今は自分自身を学んでいるだろうかとふと考えた。