蝶の渡り


英語併記の映画も多いなかジョージアの絵の数々にジョージア文字だけのエンドクレジットを見ながら、ラナ・ゴゴベリゼが自伝『思い出されることを思い出されるままに』で、日本に滞在した時に「街を彩る美しい文字」に魅せられた、ジョージアの広告も英語ではなくジョージア文字を使うべきだと述べていたのを思い出した。彼女が金継ぎに着想を得て書いたという『金の糸』(2019)で主演していたナナ・ジョルジャゼのこの新作にも日本の要素があるが、アメリカのお金持ちの家のメイドが「二人とも日本人」というのは雇い主の日本趣味を強調しているのか(映画の)ジョークなのか、結構あることなのか。

バレエダンサーだったが今はビルの窓を拭いているニナ(タマル・タバタゼ)は「王子様」に見初められアメリカへ渡り、買い手のない服を作り続けるロラ(タマル・ブズィアバ)もそれに倣ってイタリア男を捕まえた…と思いきや彼は蝶のためジョージアに留まると言い出す。このエピソードの冒頭が『厩火事』を彷彿とさせるので(世界に共通する「笑い」なんだろう)落語のようだと思っていたら、最後に娼婦を名乗る元オペラ歌手(ダレジャン・ハルシラゼ)が私にも誰か見つけてくれとやってくるのが笑える。『ロビンソナーダ 私の英国人の祖父』(1986)も『シェフ イン ラブ』(1996)も赤軍侵攻前後の異国の男とジョージアの女の愛を描いていたが、数十年後のそれにおける女は「娼婦」だというわけである。こちらの方が安泰を望めるのだから皮肉なものだ。この辺りの肝の据わった喜劇具合にはぐっときた。

「蝶は風が吹くのを待っている、風に乗って正しい方へ行くことができれば生き延びられる」。1991年の独立から戦争を経て27年、いまだ踏みにじられ政情不安で芸術では食い扶持の稼げないジョージアには飛んでいく蝶と留まる蝶がいる。出国するニナと別れを惜しむ、「ミラノの巨匠」の代役で舞台衣装のデザインを請け負うコスタの指や爪の黒ずみは芸術家のそれではない。しかし彼は残る。翻って「生涯で一番の美女」と結婚したいと言えば結婚できると思っているアメリカ人や音楽家を二人一緒でなければ雇わないと言い切るアメリカ人は希望通り蝶を連れ帰る。背に腹は代えられずアメリカへ渡ったミシャとムラがネイティブアメリカンの音楽に親しんでいるのに冒頭バッハにベートーヴェンの旋律を楽器で口で奏でていたのを思い出し、世界を巡る文化の豊かさを思う。でも飛ばされていったままではフェアじゃない。映画は蝶は正しいところへ帰ってくると言っている。「希望は過程より大切」の前者を描いているのだとしても。