アンデス、ふたりぼっち


アンデス高地に暮らす老夫婦を描いた2017年製作の劇映画。妻パクシ役、夫ウィルカ役いずれもの演技然とした演技が大変「自然」に思われる。邦題のように「ふたりぼっち」なんだから(それなのに映像があるんだから)演技であるのが「自然」なのだ(絶妙な動きを見せる動物たちは「素人」なのか否か)。この作り物感が、例え「作中の二人」が救われようと意味がないのだ、そういう問題じゃないのだというメッセージのように私には伝わってきた。

画面の中に同じスピードで動く二人を見ているうち、「帰らない息子」「なくなるマッチ」といった問題が順に浮かび上がってくる。前者については「アイマラ語を恥ずかしいと言っていた」「広い街のせいだ」とのセリフがあり、後者についてはずっと昔はマッチなどなかったのが物だけ入ってきてフォローがなされていないためこんなことになっているわけなので、そうした皺寄せの行方に素知らぬ顔をしている過ちとして、人類は二人が死んだ瞬間に全滅してしまうんじゃないかという奇妙な感覚に襲われた…屋根を直す夫婦を見ながらふと。

原題のWinaypachaとはアイマラ語で永遠という意味だそう。私は子どもの頃、何事も何度もやり直せるような感覚を持っていたのが、いつの日からかそうでないと知った。この映画を見ると、個人も世界もそうなのだと改めて心に刻みつけられる。顧みると実家を出て戻らない自分もそこにある。作中ではウィルカが次第に「疲れた」とばかり言うようになるのが印象的で…そりゃそうだ、他に誰もいないため歳を取っても肉体労働を続けねばならないんだから…それはここでは明確に、死に近づいていることを示している。あるいはそれを自覚してもう抗わないことをも。