宮部みゆきによる原作小説は未読。
とても面白かった。始まって数分、タイトルが出た時点で、ああ私はこれまでちゃんと見てただろうか?ともう一度始めから見直したくなった。何かを掴んだと思わせない雑多な感じがいい。
最初に映る「スカイツリー」から、「現在」はその竣工後(すなわち最近)だと分かる。桜、校庭、子ども達、後ろ姿のこれも子ども?と思うが、顔が映ると大人の女性(尾野真千子)。彼女は中学校の正門から、今は「防犯カメラ」を備えた通用門の方へ移動して学校へ入る。
私の好きな「誰かが語っている」形式の映画だけど、前編では「現在」のパートは彼女のナレーション以外、冒頭の映像のみ。しかし彼女が今は教員になっている(例えば「検事」になったわけではない)ことが、常にこちらの視点を支えてくれる。
藤野涼子(藤野涼子)が野田健一(前田航基)と登校する途中、「クリスマスにこんなに雪が積もるのは6回目なんだって」と言われ「誰が言ってたの?」と返すことから、彼女がいわゆる「ソース」を求めることが分かる。雪を掻く姿に実行力が窺える。保健室で「僕は大丈夫」を受けての「私達、教室に戻ります」にまとめ力が窺える。冒頭部でどんな人物だか分かる、この辺が本当に上手い。
「教師になって2年目」の森内(黒木華)が通知表を渡している時の、彼女の状態に関係なく常にそうだろうと思わせる、学級内の心もとない空気、崩れ落ちるや「先生は彼を守れませんでした」との台詞に自分を「先生」と呼ぶことに躊躇のないタイプなのかと思っていると主語が「私」に変わる、こういう辺りも素晴らしく、惹き込まれた。
この映画は「時間」の流れを細かく伝えてくれる。「現在」の桜に始まり「過去」のクリスマス、以降、町の正月飾りや学校裏の枯れ葉など、わざとらしいほどの背景で「今」は「いつ」かを示す。このしつこさには意味があると思う。流動的であることが本質である「学校」にとって、時間の経過は大切なものだから。作中忘れ掛けていた頃に挿入される真野真千子のナレーションが「91年の夏を迎えようとしていた」であるのも、それゆえだと思う。
14歳の頃の「時間」は40歳の頃よりも「長い」。だから「真実」をうやむやにしておくことに耐えられないのかもしれない。そう考えると、初めて学校を「敵に回した」日の母(夏川結衣)の「泣いてる暇なんてないでしょ」が心に響く。
三宅樹理と浅井松子のシーンの素晴らしいこと、「日本橋」をくぐるカットに始まる初登場のバスの中から心奪われた。常に世界を睨みつけている樹理と、樹理しか見ていない松子。樹理は松子に散々暴言を吐いておきながら、大出の暴行から彼女のクラリネットのリードを守ろうと口を出す。「樹理ちゃんは本当は優しい」って、「本当に」という意味がどうであれ、松子はある意味「真実」を掴んでいたのだと言える。「走る」ことで感情を表す彼女の姿が印象的だった。
暴力シーンの数々も出色。こんな映像で暴力を扱って何の意味があるの、なんて全然思わせない。その内容が「過激」というわけじゃない、映し方が鮮やかなの。
中学生を性的に見ていないところもよかった。作中の人物同士が性的に意識し合っているか否かという意味じゃなく、作り手というか、「映画」が中学生をちゃんと中学生として扱っているところがいい。それゆえにつまらないという意見の人がいたら、どんな映画でも楽しめていいねと皮肉を返したい。
話は1991年のクリスマスの朝に始まる。彼女達とほぼ同い年の私にとってはそれも面白い要素。尤も、学校に戻ってきた藤野、ではない中原は「あの頃はバブルの終わりで大人達は皆…」と語り始めるが、当時の私は、両親が公務員だというのを差し引いても、大人がどうだなんて全く意識していなかった。あの頃はあの頃が「普通」だったから。
まず藤野家の朝の風景、「縁側」のクリスマスツリーなどに心惹かれる。女子がセーラー服の下に着る白い下着(確かに皆そうだった)、あのスポーツバッグ(私はぺちゃんこにして缶バッジ付けてた・笑)目を引いたのはビールの瓶や缶、当時は売り場を覘いたことがなかったし自分の家では誰も飲まなかったから、記憶に無いものばかりだった。
彼女(達)にとっては、「真実」を求めること、自分達で物事を決めて実行すること、が大切なので、身近な死にショックを受けてはいても、裁判の準備の場面などはとても楽しそうだ。それはまた別の問題だから。後編はいよいよ当の「裁判」描写になるので楽しみ。