キッツ先生の子供たち



EUフィルムデーズ2018」にて観賞した、2016年オランダ映画。移民・難民クラスを担うキッツ先生のまっとうな仕事ぶり、子ども達の生き生きした姿とその変化、今まで見た学校ドキュメンタリーの中でも一番ってくらい面白かった。


ドキュメンタリーでもそうでなくても、学校映画の朝の場面には国を問わず共通する空気があるものだが、本作のオープニング、キッツ先生が廊下を教室に向かう場面には、体感したことのない類の静けさがあり驚いた。それは休み時間の子ども達をもコントロールしなきゃならないほど、一緒にやっていくためにこそ一時的にクラスを分けるという、覚悟の静けさのように思われる。


続く、キッツ先生が子らの机にその日に使うテキストをセットする場面も面白い。あまりしないことだから心に引っ掛かったまま見た。エンディング、彼女がそれぞれの机の中をチェックしてやはりその日に使う教材を用意し、登校してきた子ども達を迎える長いシーンに、これは国が移民・難民を「迎え入れる」ことの縮図なんだと思った。そりゃそうだ、教員はいつだって政治の末端、最先端に居るのだから。


通学時に転んで服を汚したハルが、ママに電話してほしいけど私の言うことは先生に通じないと言う。他の子を介してそれを聞いたキッツ先生は「ハルにはちゃんと説明した」と言う。戦下のシリアから来たばかりのジョージに「眠れなかった理由」をオランダ語で話してもらおうとするができず、他の子に訳してもらう時の先生の焦りもよく伝わってきた。かように言葉が出来ないということは悪循環を生みがちだ。


キッツ先生は子ども達が書き終えたノートやら何やらに好きなシールを選ばせ、貼らせる。学校ではシールやはんこ、赤ペンでの丸なんてものが大きな意味を持つ、というか意味を持たせている。意味を持たせているからには意味を付与しなきゃならない。そのことがきちんと記録されているのがよかった。


掛け算に取り組むジョージが、キッツ先生がその場で書き付けた問題を解く姿には涙が出てしまった。学校ってこんな紙一枚、やるのに数分の、小さなことの積み重ねなんだって。もしかしたら人生も。むろん教育には計画を立てての長い時間が必要だけれど、それでもそう、学校での一瞬一瞬のかけがえのないことよ。


計算問題に悩まされるジョージは当初、母語アラビア語で「先生はママじゃないし」と不平を言うが、冒頭タイトル(邦題はそのまま、「Miss Kiet's Children」)が出た時には実にタイムリーだと思ったものだ。「子どもにはママだけが一番」なんてことはない、子どもは皆の子どもなのだと。