木靴の樹/緑はよみがえる


学生時代以来の早稲田松竹にてオルミ特集。そんなに好きな監督じゃないけど、行くつもりだった岩波ホールでの「緑はよみがえる」を逃したのが引っ掛かっていたので。まずは「木靴の樹」「聖なる酔っぱらいの伝説」、後日滑り込みで「緑はよみがえる」を観賞。



木靴の樹 (1978)


オープニング、息子ミネクについて「(働かせるのではなく)学校に通わせるのが主の思し召し」だと司祭に諭された夫婦が共同住宅に帰り着く姿に「フーガ ト短調」が流れ、彼ら農民達の労働の様子が描かれる。この映画にカトリックではないバッハの音楽が使われているのは不思議だが、これら全てから遠い私が子どもの頃にこの曲をいたく気に入っていた所にその答えがあるようにも思う。曲は彼らがあひるの首を落とすところで終わる。その行為は、数少ない「自分の所有物」を殺す自由を満喫しているかのようでもある。


祖母が洗濯の仕事をする脇でくるくると動き回る様々な年齢の子どもを見ているうち、この子はやがてこの子になる、この子はやがてこの子になる…と繋がっているように思われてくる。進歩は無く繰り返しである。彼らは構成員全員で「人間」として生きているようで、「時間」が止まっている感がある。例えば「子どもは自分よりよい生活をするようになるか否か」なんて質問は意味をなさない。


唯一「時間」が動くのが、ミネクが学校で勉強してきたことを家で話す場面。「一滴の水の中にも生物がいる、特別な機械を使えば見える」と言うと、父親は「時代は変わった」と感嘆する。後に帳面を見て「これが『E』か」と母親と話す場面もある。ところが「権利」が無いゆえにこの動きが断たれてしまうというのがこの物語だ。


早朝に結婚した夫婦がミラノまで「危険な旅」をするくだりで、「同じ所」を巡るばかりだったこの映画が突如、新たな動きを見せる。川を下る間の教会の鐘の音や火事の煙に、違う土地にも同じような生活があると知れるが、ミラノに到着すると、これが「時間」の旅でもあると分かる。道行く二人はまるでタイムスリップしてきたようだ。


復活祭で「農民の権利」に関する演説がなされている間、男は足元の金貨にしか目がいかない。都会に出掛けた夫婦は「デモ」が何だか分からない。映画の最後、そんな彼らは、地主が隣人一家を追い出すのに憤りつつ、目をそらすかお祈りを唱えるかしか出来ない。振り返ると作中出てきた「貧乏人ほど神に近い」「天使は(赤ちゃんは)神の手を連れてくる」なんて言葉の数々も誰が言い出したのか、まやかしに思われてしまう。


面白かったのは、作中の彼らがしていること全てにつき、何と言うか「身体的」に「想像がつく」ということ。雪の日に洗濯なんて絶対嫌だとぶるぶるしちゃうし、火に足をあてた時の感じ、シーツに顔をうずめた時の感じ。「こんな時季にもうトマトかい?」の場面も、私達の時代に繋がっている(確かにここにも、いわば内から生まれた「時間」の動きがあった)。今現在、ちょっとお金を出せば買える新製品のCMを見ているよりも「リアル」なんだから妙なものだ。


聖なる酔っぱらいの伝説 (1988)


木靴の樹」の圧倒的な三時間の直後に見たこちらは印象が薄くなってしまった。とりあえず、出た〜(オルミの映画にスターの!)ルドガー・ハウアー!とまず思う。主人公である彼のみを追う映画ということもあり、その美しい瞳に、「木靴の樹」じゃ誰の瞳が何色かなんて気に留める余裕が無かったと気付く。ともあれ一人で二時間をもたせるパワーに、やはり役者だなあと思う。


加えて冒頭、電車や車が行き交い、ビルが建てられ、そもそも時代だけじゃなく国も違うのに、ルドガーがむくつけき手でメモをとり、起きると眼鏡をかけて新聞を見るのに、労働者も読み書きできるようになった、と思ってしまって…(笑)



▼緑はよみがえる (2014)


木靴の樹」が「(この時に)農民として生きること」を描いた映画なら、こちらは「(この時に)兵士として生きること」を描いた映画である。誰もが「人間扱い」されていないが、思えばそんな言葉があること自体、人間は人間を「人間扱い」しないという証拠じゃないかと言いたくなる、こんな今日じゃ余計に。


あまりに静かなナレーションが「彼らも時折日常を取り戻す、兵士にとってのそれは戦争だ」と言うが、それならば、冒頭に示される、彼らがしているあれこれは(「日常」で無いとしたら)何なのだろう?「皆の士気を揚げるように」との指令を伝達された大尉は「ここは時には家になります、何も考えないのが一番なのです」と返す。しかし一人だけ家族の写真も手紙も無い兵士がネズミを餌付けしているのを思えば、やはりここは家ではない。「家」とするのは、何度もその姿が挿入される野性動物である。


それにしても作中最初のあの戦死、まるでスケッチだ。4メートルもの深さの雪の中で、音を立てないよう息を潜め、隠れて外を窺い、砲弾を受けると壕が揺れ、物が落ちるなんて描写の数々はどことなく潜水艦映画も思わせる。潜水艦映画に心躍らせる私だけども、この映画に心は躍らない。舞台が潜水艦ならば少しでも躍ってしまうのだろうか。


まとまりのよさ、演出の思い切りのよさから、手練れの老人が力を込めて作っているのが分かる。ラスト、母親に手紙を書き始めた中尉(アレッサンドロ・スペルドゥーティ)は途中から顔を上げてこちらに語りかける。「家に帰る者もいるが、彼らは目にした死を持ち帰る」。次いで「帰路に着く」、すなわち「死」を持ち帰る(と言われなければ「そう」は見えない)兵士達の実録映像を挟み、最後に壕の中の兵士が語りかける。「やがて緑はよみがえるが、ここには何も残らない、信じる者すらいなくなる」。何のためにこの映画を作ったのか念押しするなんてやり方は嫌いじゃない。