この世界の片隅に



気持ちが悪いと言われそうだけど、前日にオルミの「緑はよみがえる」を見たせいか、朝方、戦争に行った、十年以上前に亡くなった祖父が夢に出てきて、今日は映画でも見よう、アニメーションがいいんじゃないかな、なんて言う。まあ夢は自分が自分に見せているものだけど、そんなわけで初日の初回に観賞。


原作「そのまま」なのに、原作とはまた異なる楽しさで全篇が紡がれていることにびっくりした。作り手の工夫というか技術というか、努力というか、私には窺い知れない何かの賜物だろう。ある作品を他の媒体で「そのまま」と感じさせるには、これだけの何かが必要なのかもしれないと思った。例えば「映像化」されるような名作は、その時代にその媒体で成し得る最高レベルのものであるはずだから、他の媒体で「同じ」になるためには「同じ」じゃダメなんだ。


漫画と違って映画は「(体験する)時間」が固定されている。めくるめくスクリーンを見ながら、鮮やかと性急の狭間というような言葉がふと頭に浮かんだ(意味不明である・笑)そもそもこれは、あまりにも色んな事が起こる物語である。原作の要素の殆どが「ある」のは、この作品には殆ど全てが必要だからだと思う。狭義の性急さを感じたのが水原さんのパートで、始め、彼ってこんな人だったっけ?と違和感を覚えたものだけど、見ているうち、彼がすずの「普通」を、カラカラに乾いた木が水を一気に飲むように吸い込んだんだ、その性急なんだと思う。


映画となると、人々の食事や服装があれよあれよという間に移り変わっていく様などもより分かりやすい。映像で見て面白かったことは多々あり、例えばすず達の顔の色(原作でも連載時にカラー絵を追っていれば分かったのかもしれないけど)。夏になると肌が焼け、冬には戻る。始めは徑子じゃなくすずが黒いが、彼女が体の一部を失なってからの夏は徑子の方が黒くなる。


どんな実写映画で見る大爆発よりも、この映画で見る戦争の被害の描写は「リアル」で怖かった。空襲を受け瓦が割れて落ちてくる場面にぞっとし(そんなの実写映画では「よくあること」過ぎるのに!)、防空壕の中で爆撃に耐える場面に震える。作中最後の空襲の時の飛行機の音!その後のラジオからの「呉の皆さん、頑張って下さい 呉の皆さん、頑張って下さい」も何とも言えず不気味だった(勿論8月6日の「広島放送局?」も)。こうしたふとした描写の数々にえぐられた。


呉の軍港への空襲が行われるのは昭和20年の春先から。もうすぐ「終戦」だと知っている「今」見ると、まさに悲しくてやりきれない。終盤、海軍下の病院の一室に「敵性音楽」が流れる横で、円太郎は大和が沈んだ話をする。「ここにいると色々なことが分かる」とは情報が集まるという意味だろうが、「傷付いた者」だけが分かることがあるようにも思う。冒頭すずと周作が大和を見る場面が、この映画の中では目立つ程ゆったりと時間が取られていたことも引っ掛かる。


原作では終盤の周作の「すずさんはこまいのう」が印象的だったので、すずは小さい、というイメージを抱いていたものだけど、映画が始まってしばらく、そうは思わない。結婚した晩に彼と抱き合う場面で初めて、ああ、小さいと思う。「広島へ帰ります!」で始まるやりとりでの周作の「この一年半、楽しかった」もやはり甘い衝撃だった。二人が出会ったのはあの橋の上だが、「起点」は結婚した時にある。


(ちなみに私にとって「周作さん」と言えば岩館真理子「えんじぇる」のスゥの夫の周作さんであり、これもまた「結婚してから恋をする」話なんだよね)


原作を読んだ際、「限りある物資による(すなわち「不自由な」)暮らし」には甘い誘惑があると思ったものだ。どこまでも目を、手を伸ばさなくても「丁寧」になれるんだから。それにやられてしまいそうで、いいものだろうかと読んでいたら、あっという間に「戦禍」に引きずり込まれる。それが恐ろしかった。映画にはその感覚は覚えなかった。ただ、始めなど戦時下だと分からないくらいで、逐一出る年号に(原作では各話の扉に年号が付いている)、教科書で知っている「歴史」と重ね合わせてええっと思う。その間に引きずり込まれる。何と言ったらいいんだろう、この感じ。やはり恐ろしかった。