フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法



ディズニーリゾートの閉園間際には、園内の時間がいったん途切れることで地に足が着いていない場所なのだということを思い知らされるとでも言ったような寂しさがあるが、この映画からも似たような感じを受けた。まるでディズニーの真裏のような…「普通」、映画におけるこうした描写は比喩だが、あのモーテル群と人々がディズニーリゾートのいわば裏に存在するのは現実である。この映画は全てが現実、まずそれが稀有で素晴らしい(ここで言う「現実」とは、ああした暮らしをする人が実際にいるということではなく、作中において比喩でなく現実であるということ)。


オルミの訃報に接したばかりということもあってか、見ながら「木靴の樹」を思い出していた。「集合住宅から家財道具を積んだ一家が出ていく」場面があるからというんじゃなく、あの映画の一番の印象、時の止まった感じをこの映画からも受けたから。あるのはただ繰り返しだけ。オープニングのぶっつり切れる「Celebration」、夏休みという背景、「学校には休み時間がある」と聞いたムーニーの「何が面白いのか分からない、休むだけじゃん」なんてセリフ。次に足を踏み出す地面が無い。


やはり始終車の走る音が聞こえている「午後8時の訪問者」を見た時、診療所が幹線道路に面しているのは絶え間なく生きる人々を受け入れることの比喩だと思ったが、この映画のハイウェイは現実である。「普通」、映画の最後に聞こえる車の、ましてやヘリコプターの轟音は主人公に大いに関係があるものだが、ここでは一切関係がない。最初から最後まで脇をすり抜けて行くだけで見向きもしない。家賃を払えるうちはそれに中指を立てもするが、お金が無くなれば出来なくなる。やって来るのは泣く程の手違いをした奴か、買春目的の奴か、子どもを虐待しようとする奴くらい。


「生理(周辺のこと)の出てくる映画はそれだけで良い」と常々書いているけれど、この映画のそれは更に先に進んでいる。女が性器や尻を出すと嫌がらせの前に性的に受け取られてしまうことがあるけれど、これならそんなふうに取れやしないだろう、という意味合いまで感じた(後の場面のフェラの真似も同じく)。加えて「女の嘔吐」の描写のシリアスなこと、今や他の映画では良い意味で軽く扱われるようになっているから、新鮮かつ心に刺さった。冒頭ヘイリーは売春を拒否して店をクビになったことをぶちまけているが(おそらく、倫理的にどうこうというより「何でしなきゃなんないの」という気持ちだろう)、どうしようもなくなって自分からしなきゃならなくなる、その面倒さが分かるだろうか。私は体が震えた。売春を強いる奴、買春する奴が枕を高くして眠っているのに。


今そこにある危機」のウィレム・デフォーを見た時、なんてジーンズの似合う人だと劇場で感動したことを、この映画のペンキを塗るシーンでふと思い出した。「管理人」の彼は作中の八割方はジーンズ姿、残りはワークパンツ姿で、やはり似合っていた。四半世紀経った今のアメリカでジーンズを履く人はああいう仕事をするんだと思った。