スクールガールズ


感染症対応の授業の様子かと思ってしまった、少女達(原題「Las ninas」)が声を出さずに歌を練習するオープニングは、彼女らが声を出す寸前で場面が変わる。主人公セリア(アンドレア・ファンドス)と共に物語を経た後の、彼女が自信を持って歌を歌うエンディングに、これは少女が世界に溢れる言葉や文を自分のものとして使い始めるまでの話なんだと分かった。
十代の頃の自分が言った、あるいは友達や男の子に言われた中で覚えている言葉にはどこかで聞いたようなものも多いけれど、それは私達が言葉の使い方を学んでる途中だったから、そのいわば足掻きが表れていたからかもしれないと考えながら見た。

何歳まで生きるかな、おれは船乗り、港ごとに女がいっぱい、なんて自分達からかけ離れた内容の伝承歌でもってゴムとび遊びに興じる少女達、これは「子どもの光景」だ。そんな中、彼女らの足元には大人による大人にさせるための言葉が潮のように満ちてくる。修道院のシスターは愛とは何たるかを書き取らせる。テレビ番組では若い女性に囲まれたおじさんが「ゴムを着けるように」などとにやついている。
例えば友人が母親の箪笥の奥から出してきたコンドームでふざけることで、言葉が自分の中で少しずつ意味と距離を得ていく。やがて、バルセロナからの転入生ブリサがダビングしてくれた「地元のロックバンド」の曲で、セリアは他人の言葉を共感を持って口にするという経験をする。修道女を蹴散らせ(だっけ?)と口ずさみ、月曜日!火曜日!と踊る。それが進んで、お祈りだって、自分にとって然るべき時に口をついて出るようになる。

友達の家やクラブに行くとしても、セリアにとって基本的には家と修道院(学校)が世界の全てである。それがある日、ある理由でもって学校へ行きたくなくて、苛立つ母親に送ってもらう、戻ってくるかもしれないから待っていてと校内に入る、教室まで行って引き返す、ママがいない、あの長回しの場面は、昨日までの学校とは違う、彼女にとって新しい世界が開けた瞬間だった。あてがわれたものをそのまま受け入れられなくなったのだ。後にブリサと校内のあちこちに入ってみるのは、それじゃあそこに何があるのかという探検なのだ。この二つの場面は「学校」を捉えたものとしてはかなり面白く心に残った。