ポスターなどから勝手にしんみりした映画だと思っていたけれど、見てみたら、まるで「天然コケッコー」のようだった(映画の方にあらず)。主人公の境遇が似ているとかそういう意味ではなく、「都会ではない」処に暮らす子どもの日常が、生き生きと丁寧に描かれているってこと。
冒頭、顔を白く塗った母親タユン(アティクァ・ハシホラン)が、帰宅した主人公のパキスから「遊ばないで」と鏡を取り上げるのは、母親は「大人」であり娘は「子ども」であるということを表しているように思われた。占いに使う「神聖な」鏡を、母親は身支度するのにのぞく、すなわち日常の道具として使うが、パキスは大切ながらどう扱っていいか分からない。また、鏡との付き合い方を教えるわけでもなく「取り上げ」てしまうことから、夫を亡くして一人で家を切り盛りするタユンにも「大人」になり切れない部分があることが窺える。
「お前の成長を願ってパパは鏡をくれたのに」というタユンのセリフに、父親がどんな人だったのか、どんな思いで娘に鏡を贈ったのか知りたくなるも分からず、そのことが、見ている私にとっても彼の「不在」を大きく感じさせる。ただ、パキスが思い起こす父親の様々な言葉、とりわけ「(お前も「小さい魚」のように)世界中を旅して自由に生きるんだ」なんて言葉から、彼の人となりについての大切な部分は分かる。映画のラスト、「小さな魚」の彼女は冒頭と変わらず「ここでずっと暮らす」と、しかしおそらく違う気持ちでもって決意するが、将来どうなるかは分からない。
一家の「空いた部屋」にジャカルタから青年トゥド(レザ・ラハディアン )がやってきたことで、状況は変わっていく。眠る彼の裸を見てカップを倒してしまう母親は、鏡の中に「彼の目に映るだろう自分」を見る(ただしその後、思い直して違うものを見る、それは映画の最後にトゥドが彼女に求めたものだった)水浴する彼のやはり裸を覗いたパキスも鏡の中に初めて「他人の目に映る自分」を見、彼もやって来る学校に、髪を結い「白い」ブラウスを着て出掛ける。しかし市場では父親のしていたように「小さい魚」を逃がそうと盗む。色々と混ざった思いが彼女を眠らせない。
オープニングから、私からしてみれば「絶景」や「珍しい生活習慣」に目を奪われるが、そのうち自分もそこで暮らしているような気になり、ある意味、何とも思わなくなる。木に鏡をたくさん吊るしている場面を予告で見た際には、こんな、いかにも「面白い」画なんてと少々白けていたのが、実際にその時が来ると、私だってそうするかもと思う。素晴らしい海を背に、パキスの同級生のルモがもう一人の男の子に、彼女に捧げる「恋の歌」をお願いしている場面では、舟じゃ彼はいつもパキスの後ろに乗っているけど、その背中はどんなふうに見えてたことだろう、なんて思う。「いつも彼氏にかばわれてるな!」と嫌がらせを受けてもいつも一緒のパキスとルモの場面はどれも楽しく、「丘」の木の周りで「化石」を掘り出す場面など、すごいすごい!と面白くてしょうがなかった。パキスの父親が行方不明になる前から関係は変化したのだろうか、などと考えた。