千年の祈り


ウェイン・ワンが、中国人作家による短編小説「千年の祈り」を映画化。



アメリカで暮らす娘の離婚に胸を痛めた父親が、中国からはるばる訪ねてくる。
原題は「A Thousand years of good prayers」。娘は、中国の諺「同じ舟に乗り合わせるなら百世もの前世の縁があり、枕を共にして眠るなら千世もの縁がある」をこう訳す。分かりあえなくても愛している、あるいは愛しているが分かりあえない、そういう類の関係についての物語。


先日上京した両親と過ごした後、同居人が「パパとママは(私に対して)何をしてあげられるかっていう、そればっかりだね」と言っていた。彼いわく、私の親に対する感情は「愛しているけど、呪ってもいる」…確かにそうかも。そういうことを書き始めたらきりがないので、この映画を観た時に起こった感情を率直に言うと、フィクションと分かっていながら、後半のあるシーンでは、父親がうざくてうざくて、劇場の椅子に座ってるのが大変だった。前半では娘の方に対して、せっかく会ったんだからもっと楽しめばいいのに〜なんて思ってたのに、現金なものだ。



映画の前半では、娘が仕事で留守の間、アメリカ初体験の父親が一人で行動する様子が淡々と描かれる。宗教勧誘人を部屋にあげてみたり、殺風景な住居に工夫をこらしてみたりする姿には、ちょっとした可笑しさがある。しかし後半になると…いつまでもこうしてはいられない。ああ、この不穏な感覚。「お父さんはいつまでこっちにいるつもり?」「お前が元気を取り戻すまでだ」。「私」の幸せと他人の幸せが違う、ということが、いつだって問題となる。致し方ない問題とも言える。


「英語を勉強したいんだ」とメモ帳を手放さない父親は、中国から出たことがないだろうに、片言でそれなりに誰とも会話をする。私もアメリカに行ったらあんなふうに喋るだろうけど、あそこまで咄嗟には単語が出てこないだろう(ちなみに日本で外国人相手だと、日本語とジェスチャーでほとんど済ませてしまう…)。
父の口から出る、娘との会話以外の中国語…すなわち相手に伝わらない言葉には、字幕がつかず、何を言っているのか分からない。彼が知り合うイラン人マダムの場合も同じで、彼女が片言の英語の合間に喋るペルシャ語には、字幕がつかない。いずれも、伝えるためでなく、自分を調整するためにアウトプットする言葉ということだ。私も異国では、あんなふうに日本語を挟んで話すかも、と想像した。


「高齢者の料理教室」に通ったという父親は、毎晩、絵に描いたようなごちそうを用意して娘を待つ。娘のほうはちょぼちょぼとしか箸をつけない。炒め物なら肉じゃなくもやしのひげのようなものを口に運んで終わりといった具合で、観ていてイライラしてしまうけど、そういう心境なんだろう。



「中国語で感情を表すことは学ばなかったから、英語のほうがラク、新しい人間になれるの」