細い目



シアター・イメージフォーラムにて開催中のヤスミン・アフマド特集で、2004年に制作された監督二作目を観賞。


映画が始まると、中華系の少年が母親に詩を読んでいる。「どこの人が書いたと思う?インドだよ」「言葉も文化も違うのに気持ちが伝わってくる、不思議ね」とは(「映画」についても言えることだから)面白いオープニングだと思っていたら、話が進むにつれ、「いい子だからではなく、ただ我が子だから愛している」という詩の内容や、「この詩人はもう亡くなった」に対する母親の反応などが喜劇的に、あるいは悲劇的に思い出されてならなくなるのだった。


少女、主人公であるマレー系のオーキッドも本を読む。自分の本を気まぐれに開いて見ている親友にその内容を説明する。「植民地が被植民地にどのような心理的影響を及ぼしてきたか」というものだが、こちらでは、木の階段を下りてゆく二人の少女の黒髪を真上から撮った画や、その後に家の中を動き回る様子に心奪われ、彼女が語るその内容が耳に入らない。しかしこちらも、話が進むにつれその意味が、重くはないが確かにのしかかってくる。


英語の字幕と日本語の字幕を比べながら見ていたんだけど、私は英語はよく分からないけど、たった二言語間でもニュアンスが違う。そう思う時、この映画が「言葉が違っても心が伝わる」という話に始まることや、「翻訳してもロマンスは無くさないで」なんてオーキッドが言っていたことが蘇る。彼女が大好きなジェイソンとの会話においても彼の言葉の始めの方を怪訝そうに聞いているのが面白く、日本人の女の子とは違うなと思ったものだけど、もしかしたら共通語である英語を掴むためかもしれない。あるいはああいう顔付きを表す、「怪訝」とは違う意味の言葉があちらにはあるのかもしれない。


オーキッドは自分の体を了解無しに触りまくったボーイフレンドに対し「英語の成績も悪いエセ白人、無教養を晒すな」とちょっとした啖呵を切る。ここでは誰とでも話せる、共通語である英語を学ぶ事が意欲や思いやりの表出に即、繋がる。相手が中華系と見るや中国語を使ってもみるオーキッドは、更に「一歩踏み込む」タイプであることも分かる。彼女の母親とお手伝いさんが、中国(語)のドラマを字幕頼りに楽しんでいる図なども面白い(喋りかけてくる夫に「セリフが聞こえない」と言い「何言ってるか分からないのに」と返され憤慨する・笑)


今回の特集にあたり、「金城武が大好きな主人公」という紹介文に惹かれてこの作品から見たんだけど、彼はいわば話の導入だった。とある世代の日本人の私にとって、今振り返れば金城武は「国際的」なスターだが、あのマレーシアにあっては特にそうした意味はないのかもしれない。ジェイソンは「恋する惑星」のVCDに自分の電話番号を添えて渡すが、多言語の飛び交うこの映画にそんな場面があると、「恋する惑星」で金城武が何か国語もを話す場面が見たくなった(笑)