週末の記録


おせちを使って。
私は子どもの頃からなますが大好きで、普段は勿論お正月にはお重に一杯作ってもらっていたものだ。今年は同居人の提案でおせちの残りを鯖サンドに挟んでみた。いわばバインミーとトルコのサバサンドの都合いいところ取り。これが驚くほど美味しかった。
鰯のごま漬けは、こちらは二年に一度は作っているピザへ。トマトと大葉とネギにチーズたっぷりで焼いて当然美味。

Swallow スワロウ


テレビのCMの「輝いて愛されよう」とか何とかいう宣伝文句に、男性にハグされている女性の笑顔。これがハンター(ヘイリー・ベネット)が世界から受け取り信じているメッセージである(夫も歯を白くするための努力をしているが、立場が違えば意味は異なる)。夫のリッチー(オースティン・ストウェル)の初対面の同僚に「寂しいから」とハグを求められた彼女は、躊躇の後にそれを許し、CMと同じ構図ながら暗い顔で、それでも「ありがとう」とさえ言うのであった。

作中ハンターが初めて怒りをどうにか口に出すのは、自身の異食症を夫が周囲の皆に言いふらしていたと知った時(このことにつき夫に感情をぶつけるのにあんな手しか使うことができないのが悲しい)。どこかおかしいと思っていたら報告を命じられていた精神科医、つきっきりでいることを命じられるシリア出身の看護師、一族によって彼女は全てを見られ、その上で管理されている。となれば異食症の所以は、体内だけが自分の支配できる領域だからであろう。尤も本作は「異食症」や「妊娠」に寄り添ってはいない。そういうあれこれを小道具にしてうまく物語っているタイプの映画である。

初めて異物を飲み込んだ翌日のトイレシーン(直接映しはしないけど、長手袋をはめうんこを潰してガラス玉を探す)にえっ出るの、いや出すの?と思ったものだけど、この映画にはトイレが幾度も登場し、「出す」行為が全編通じて語られる。ラスト、便座から立ち上がったハンターの後に……しかし自身で決めたことを実行した彼女は意気揚々と去り、残ったカメラが入っては出てゆく女性達を映し続けるエンディングが実にさわやか。前にも書いたけど、さわやかって「息ができる」ということである。

年始の記録その2


お正月休み締めのごちそうは、鯖料理のコース。初めて食べた醤油漬けの美味しいこと。これは、と思い付いて刺身を一切れ浸して食べてみたら味が異なり、料理によって使用部位が違うことに気付いた。ご飯追加で美味しく平らげる。


生まれて初めて手にした福袋は、クリスマスプレゼントの一つとして同居人が予約してくれていたコメダ珈琲のもの。まずは目当てのロゴスとのコラボグッズが可愛い。コーヒーチケットといえば「11枚」がお約束なのに7枚なのは寂しかったけど(笑)宝くじの結果が楽しみ☆


としま産業振興プラザの1階にオープンしたてのイケビズカフェにて看板商品のパンケーキ、ストロベリー&マスカルポーネクリーム。全てにおいて精製されていない味がした。ドリンクバーの使い勝手もよく、居心地のいいお店。

ミセス・ノイズィ


真紀(篠原ゆき子)に対する夫・裕一(長尾卓磨)のオープニングの一言、程無く世界から色が失われてゆく演出は、「母親になると弱者に転落する」ことの表れ。この映画にはまず、子の殺人や虐待などが露わになると母親ばかりが責められるという事実が示唆されている。真紀の娘のなっちゃんを心配する隣家の美和子も裕一のことは一切口に出さないし、真紀の母に至っては「もっと気を遣わなきゃ」と注意する始末。

ただしこの映画は、示唆されている多くの問題について特に何も回収しない。「示唆している」ことは明らかなのに。全編通じて一秒でも早く離れた方がいいと思わせられる裕一が映画の終わりに真紀の「青空」に変わることなど、私には全然納得できない。作り手が一番言いたいのはきゅうりのくだり、すなわち規格から外れたものが捨てられていいわけがないということであって、全ての人間に愛が注がれているのだろうけど、そりゃあ真紀にも瑕疵があるけれど、男と女にどちらも瑕疵があればマジョリティの与える害の方がそりゃあ甚大でしょう。それが何の過程も反省の意も無く、というのはおかしい。

ワインを買ってくるも引っ越し直後でグラスの棚は空、しかし全く(段ボールを探りに)動く気配のない裕一が真紀を踊りに誘い、彼女もまんざらではない表情で応える場面には、「何だかんだ言って好き」という気持ちが表れているように思われた。だから真紀には真紀の筋があるのかもしれない。物事を多面的に捉えることが大切と訴える作品だって当然ながら全てを掬えない、それを分かってやれるところまでやっているような感じを受けて、全体的には好感を持った。

真紀が若い頃に書いた小説に美和子の夫が涙する描写にふと、裕一の奏でる「素晴らしい音」が誰かを幸せにしている可能性だってあると思う。身近な人にとってよい人であるか否かと、よい物を作る人であるか否かとは何の関係ない。美和子に「人間が描けていない、深みがない」とアドバイスし続ける編集者の男性だって、家ではどんなだか分からない。これは映画が示唆しているわけではなく私の勝手な読みだけども、お話のうまさゆえ期せずしてこのような良い余白が生まれているとも言える。

映画を見ていると「窓とは家と社会を繋ぐ場所である」ということに気付かされる。最も強く感じたのは「92歳のパリジェンヌ」(原題「La Derniere Lecon(最後の授業)」、2015年フランス)、そこでは窓は社会運動の場だったものだけども、日本ではそうした側面はあまり無い…から映画にもその要素は出てこない(日本映画には疎いのでもしかしたらあるのかもしれないけれど)。本作の窓、というかベランダは個人や家庭の内で処理しきれない重苦が耐えきれず溢れ出てしまう場所に思われた(でもって表に出ているということで他者に消費される)。それもまた窓の正しい解釈じゃないかと思う。社会運動が出来るのはある程度、恵まれているからなのだし。

新感染半島 ファイナル・ステージ


「お前らなんていつ難民に認定されるか分からないんだから、金を貯めとけよ」(=「自助」しろよ)。こう焚き付けて人を使い捨てする奴の「助け合ってたら死ぬぞ」とのアドバイスに、「半島」仲間の一人が「この二人(カン・ドンウォン演じるジョンソクとキム・ドゥユン演じるその義兄チョルミン)は家族だから心配だ」と口にする。一瞬分からなかったけれど、その意味するところは、助け合いとは家族に類するものを持つ特権階級の内で行われるものであり、あぶれた者は割を食うということなのである。

この歪んだ、と言うのは適切じゃないか、文明化を目指すなら見直さねばならない類の助け合いの肥大したものが631部隊である。自死しようとしているソ大尉(ク・ギョファン)と傷を負ったキム兵士は生き延びるために所属しているアウトサイダーだと言える。キム兵士が大尉を慕っているのは、外に出て活動しない彼を自分と同類と信じているからだろうか。初対面ではまず銃を向け合う、銃暴力のあふれるこの映画において唯一真に胸が詰まったのは、部隊に捕えられたチョルミンが服を切り裂かれ晒される場面である。その後の、「実際」を踏まえて作られた数多の映画で見てきた奴隷部屋の悲痛さよ。

そうした世界に、ただ「弱い者に手を貸す」という形の助け合いが生まれる、あるいは復活する過程を描いたのがこの映画である。最後にジュニ(イ・レ)が「悪くなかった」と言う、彼女がそれまでいた世界はそれによって成り立っていたのであり、作中最も幼いユジンの言葉を切っ掛けにジョンソクもそれを実行するようになる。「常識で考える」ことしかせずに生きていたら、彼だとて部隊の一員となる可能性がある。

アヴァンタイトルにおいて、韓国が近隣諸国に見放され孤立した経緯がアメリカの深夜番組のトークという形で語られる。私達アジア系が考える典型的な強者=「英語話者の白人」男女が「釜山の発音は合っていますか」などと気を遣いつつ他人事のように話している(ように見える)画面はどこか絵空事のように撮られており、タイトル後に登場する人々が死ぬの生きるのとやっている外側に圧倒的な強者がいることを示唆しているように思われる(この枠組みには数か月前に見た「薬の神じゃない!」(2018年中国)が頭に浮かんだ)。しかし希望、すなわち私達が握っている変化の可能性、はある。人を見放すのは「神」ではなく人なのだから、流れに任せずどうにかして世界を更新していこうというわけだ。

年始の記録その1


元日の朝ごはんと晩ごはん。
餅の嫌いな私は白いご飯に、晩には煮付けてもらったブリの照り焼きをのせて。もらいもののユリ根をガーリックバターで炒めてもらったものもとても美味しく、あっという間に食べてしまった。


二日には海老フライと、筑前煮に使った残りのごぼうを揚げてもらった。私はIKEAのピクルスでタルタルソースを作った。
お雑煮のおつゆに入れたのはサリ麺。美味しいおつゆでさっと煮たこの麺は最高。


池袋駅構内に入店したミニヨンでミニクロワッサンを購入。全種類に加えて季節限定のオレンジ、どれも安くて美味。
トリアノンを通りがかりに買ったのは、ショートケーキとナッツのケーキ(名前を失念)。これも甘くて美味。

今年を振り返って

今年見た映画の中からお気に入りベスト10を、観賞順に。

リンドグレーン感想

▼ロニートエスティ 彼女たちの選択(感想

▼37セカンズ(感想

▼恐竜が教えてくれたこと(感想

▼アドリフト 41日間の漂流(感想

▼イップ・マン 完結(感想

▼幸せへのまわり道(感想

▼ブリング・ミー・ホーム 尋ね人(感想

▼マティアス&マキシム(感想

アイヌモシリ(感想


おまけ。「ファイティング・with・ファイア(Playing with Fire)」(2019制作、今年日本にてソフト発売&配信開始)がBTSの曲を使用した最初のアメリカ映画だということを記録しておく。ジョン・シナ演じる消防士のいわゆる悪しき男性性が、女性を物扱いする行為などではなく(フィクションにおいてはそんな段階はとっくに終わっているからね)「火と『闘う』」という意識にブリアナ・ヒルデブランド演じる少女から疑問を呈されることによって表されるこの映画は、彼が養子にした少年の趣味に合わせてBTSで踊るようになるところで終わる。面白くはないけど悪くない一本。