ロニートとエスティ 彼女たちの選択



「仕事に情熱を感じてる
 今の生徒達が好きだし、夢を与えてる
 好きなように生きてと伝えてる」
「あなたはどうなの」
「これが私」

見終わった後にあの人はこれからどんな教師になるだろうと考えてしまう映画があるものだが、これもそうだった。月曜の朝、生徒達の歌をそっと聴き「会いたかった」と言うエスティ(レイチェル・マクアダムス)がいい教師であることには違いないだろう、でもここでは迫害されているに等しいロニートレイチェル・ワイズ)に対し自分は変わらないけれど留まってほしいだなんて無茶を言わざるを得ないような今から違う場所へ動けたなら、「これが私」の「これ」が変わったなら、もっと違う先生になるだろうと。

ニートの父は「神の創造物の中で人間だけが自由意志を持つ、選択は人間の特権であり重荷でもある」と言い残して亡くなるが、ユダヤ教指導者であった彼の死を悼む人々の集まりにおいて、意思でもって共同体を出る選択をしたロニートは疎んじられる。ドヴィッド(アレッサンドロ・ニヴォラ)の授業によればユダヤ教の教えには性愛の素晴らしさも説かれているそうだが(彼が「男女間の崇高な何かがあると読み取れないか」と自分の信じたいことを弟子達に振るのが印象的だが若者らは何も答えず場面は変わる)、この映画で時間を掛けて描かれるそれは共同体から遠く離れた場所で営まれる。外から見ると奇妙だし、「父親の最期を看取るべきだった」「知らなかったから」「町から出たせいだ」なんてやりとりは矛盾そのものにしか思えないが、振り返れば身を持って知っている空気だ。

冒頭、ロニートは縁を切ったまま父を失ったと知り思うように息ができなくなる。エスティは「子どもの頃から求めていた」彼女を自身が共同体に残るためにやむなく入った家庭に招いたことでやはり息が苦しくなる。最後に息ができなくなるのは愛する妻に好きな女性がいると知りながら続けてきた家庭生活を否定されたドヴィッドで、彼が自身が力を与えられた共同体において「あなたたちは自由なのだ」と認め叫ぶことで…叫べるのは男である彼しかいないから…三人は解放される。それぞれの「私の自由」を認め合い抱き合い、驚くほどさわやかな朝を迎える。さわやかとは息が出来るということなのだと思う。彼らはそれぞれ自分のやり方で愛を表明するようになる。ロニートはドヴィッドの頬に直に触れ、父へも自分のやり方でさよならを告げるのだ。