ミセス・ノイズィ


真紀(篠原ゆき子)に対する夫・裕一(長尾卓磨)のオープニングの一言、程無く世界から色が失われてゆく演出は、「母親になると弱者に転落する」ことの表れ。この映画にはまず、子の殺人や虐待などが露わになると母親ばかりが責められるという事実が示唆されている。真紀の娘のなっちゃんを心配する隣家の美和子も裕一のことは一切口に出さないし、真紀の母に至っては「もっと気を遣わなきゃ」と注意する始末。

ただしこの映画は、示唆されている多くの問題について特に何も回収しない。「示唆している」ことは明らかなのに。全編通じて一秒でも早く離れた方がいいと思わせられる裕一が映画の終わりに真紀の「青空」に変わることなど、私には全然納得できない。作り手が一番言いたいのはきゅうりのくだり、すなわち規格から外れたものが捨てられていいわけがないということであって、全ての人間に愛が注がれているのだろうけど、そりゃあ真紀にも瑕疵があるけれど、男と女にどちらも瑕疵があればマジョリティの与える害の方がそりゃあ甚大でしょう。それが何の過程も反省の意も無く、というのはおかしい。

ワインを買ってくるも引っ越し直後でグラスの棚は空、しかし全く(段ボールを探りに)動く気配のない裕一が真紀を踊りに誘い、彼女もまんざらではない表情で応える場面には、「何だかんだ言って好き」という気持ちが表れているように思われた。だから真紀には真紀の筋があるのかもしれない。物事を多面的に捉えることが大切と訴える作品だって当然ながら全てを掬えない、それを分かってやれるところまでやっているような感じを受けて、全体的には好感を持った。

真紀が若い頃に書いた小説に美和子の夫が涙する描写にふと、裕一の奏でる「素晴らしい音」が誰かを幸せにしている可能性だってあると思う。身近な人にとってよい人であるか否かと、よい物を作る人であるか否かとは何の関係ない。美和子に「人間が描けていない、深みがない」とアドバイスし続ける編集者の男性だって、家ではどんなだか分からない。これは映画が示唆しているわけではなく私の勝手な読みだけども、お話のうまさゆえ期せずしてこのような良い余白が生まれているとも言える。

映画を見ていると「窓とは家と社会を繋ぐ場所である」ということに気付かされる。最も強く感じたのは「92歳のパリジェンヌ」(原題「La Derniere Lecon(最後の授業)」、2015年フランス)、そこでは窓は社会運動の場だったものだけども、日本ではそうした側面はあまり無い…から映画にもその要素は出てこない(日本映画には疎いのでもしかしたらあるのかもしれないけれど)。本作の窓、というかベランダは個人や家庭の内で処理しきれない重苦が耐えきれず溢れ出てしまう場所に思われた(でもって表に出ているということで他者に消費される)。それもまた窓の正しい解釈じゃないかと思う。社会運動が出来るのはある程度、恵まれているからなのだし。