私たち


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞、2021年アリス・ディオップ脚本監督作品。

パリを南北に走るRERのB線沿いの「郊外」に暮らす人々を収めたドキュメンタリーで、監督の身内が映っていることにより身内が映っていなくともホームビデオたり得ると気付かされるのが面白い。映画の終わりに観客はこれは広義のホームビデオなのだとの確証を得られるが、それを私達と共有するためには、すなわち「同席」するためには撮り手が被写体にならねばならないと示してくれるのも頼もしい。

始めは何の映画だか分からないが、オープニングタイトルと共に電車の音がし、線路の映っているカットなどが段階的に挿入されることで舞台がどこだか判明する。電車の果たす役割というよりその意味が表れており、見ているうちにそれが拡張もするというスタイルの電車映画である。

夜と昼が繰り返される。何時だろうか帰宅する人々でごった返すホームからカメラも乗り込み一人の女性に寄り添う。彼女は始発で家政婦の仕事に出ていたという亡き母について語り始め、「母親が消え去りそう」なことこそが母親を語っているほぼ30年前のホームビデオが挿入される。しばらく後に監督自身が撮った亡き父の映像の段になると先のホームビデオを軸に世界が反転してカバーされる範囲が広がり、変わらず挿入される電車の映像の意味するところも大きくなっていく。彼女はホームビデオにつき「夢で見た空っぽのお墓よりいい、思い出すと楽しい気持ちになる」と言うが、この映画自体がそれを目的としているんじゃないかと思われてくる。

フランス映画を見て、窓とは社会との接点であり主張の場なのだと何度も思ってきたものだけど、この映画でようやく、それは都心に限った話なのだと気付いた。「郊外」の家だって窓の外は社会だけども、物理的にも比喩的にも都心のそれに比べて距離がある。そう考えていたら、白人の老人女性、男性が住む一軒家を回る看護師の女性(後に監督の妹だと分かる)は訪問先の窓から遠い奥の間で「子ども番組を見ていたら世情に疎くなる」とテレビ番組を変えるのだった。