人生タクシー



とても面白かった。映画の始め、タクシーの中から外を行き交う人々をぼんやりと眺めていると信号が変わって発車するのには、何をぼやぼやしてたんだ、見る側に収まってたんじゃ始まらないぞと気持ちが高まった。終わりを明かすのはネタバレになると思うので詳しくは避けるけど、他に例を見ない幕引きである。イランで上映を禁じられている類の「現実」を、あのカメラは映したことになるのだろうか、映さなかったことになるのだろうか。


タクシー運転手に扮したジャファル・パナヒ監督が、急ぎの客を他のタクシーに乗せるのが印象的だった。監督は道も知らなきゃ運転も下手、タクシーの運転手としては全然ダメである。でも務まらないってわけじゃない。だけどプロじゃない。彼は客の「あなたがなぜこんな仕事を、宝の持ち腐れだ」に対し「いや(運転手だって)普通の仕事だよ」と返すが、何事もそう、シームレスだが厳然たる方向性があり、「プロ」が居る。全篇に渡ってそのことが横たわっているようにも感じられた。


作中には多くの映像が登場する。監督のスマートフォンで撮られる遺言や姪が自分のデジタルカメラで撮る映像など、備えたカメラ以外の機器で撮影されこの映画の素材となる(という体の)ものや、姪が話す「自分の目の前で起きたこと」の記録や幼馴染みが見せる「自分を傷付けたこと」の記録など、人の口からその存在が語られるもの。それらと「映画」との境界、違いって何だろう?それを象徴的に表しているのが運転席の監督である。


監督が待ち合わせる幼馴染みのエピソードが面白い。始めの客二人の議論の内容を体で被ったような彼が、特別親しいわけでもない監督に会って映像を見てもらいたがるのは、「君は(製作が禁じられているから)駄目でも誰かが映画にしてくれるかも」と思うからなのである(続けて「君と話すと気が楽になる」というようなことを言う)。このパートは、映画にはそういう、不条理にぶつかった人の気持ちを和らげる役割もあるんだというメッセージに思われた。


「始めの客」のうちの女性が「犯罪は『作られる』もの」と主張するのは、まさに教員の鑑である。そう思わないとやっていられないとも考えられる。それって、「泥棒」にも「映画監督」にも、「こうでもしなきゃ外国の映画は見られない」とうそぶく海賊版業者にも当てはまるのかもしれない。彼が「分かってますよ、映画の撮影なんでしょう?」と繰り返すのは、先日見た「ぼくと魔法の言葉たち」じゃないけど、世界を映画で解釈しなければ納得できないというふうにも取れる。


本作には、なんと「思い通りの映像が撮れず苛立つドキュメンタリー監督」まで登場する。この行為には、彼女が子どもであることに加え、根底に「上映可能な」映画でなければ上映できないという事情もある。何せ「上映して賞を獲れば、資金を得て次の映画が撮れる」のだから。日本のドキュメンタリーにもこの手の、作者の意図先行型のものがあると読んだり聞いたりするけれど、抑圧の大小はあれ同じ事情が潜んでいるのかもしれないとふと考えた。


映像の持つ力とはまず何かというと、「見える」ことである。「オレンジジュースの人」の顔を見なかった監督は店から戻った姪にどんなだったか聞くが、カメラを置いていくよう言われていた彼女は「普通だった」としか表現できない。ちなみに彼女の撮る映像は、「大好きなおじさん」や「素敵なバラ」など心寄せるものがやたらとでかく映っているのがいい。少年との一件の後に車の外に出る監督の姿が、少し見上げるように、端的に言って「大人」に映っていたのには、彼女の心細さが表れているようだった(そして監督が出て行った理由を知って心を捻られるのだった)