イニシェリン島の精霊


「悲しい本を読むと悲しくなる(から読まない)」と言っていたパードリック(コリン・ファレル)は結局、妹シボーン(ケリー・コンドン)が残していった本ではなく火の方を手にしてしまう。これは悲しい本を読んで悲しい人を思うことができない人々の悲劇だと言える。店主の女性の求める「面白いニュース」が見知らぬ人の惨い話であることも、島の皆が実際に見えも聞こえもしている内戦を他人事と捉えているのも、全て根っこで繋がっている。

(以下「ネタバレ」しています)

コルム(ブレンダン・グリーソン)の言い分の筋が通っていそうにも聞こえるのが話の肝で、だからといって彼の言動はパードリックの言う通り「自分のことだけ」、シボーンの言う通り「無礼」そのものなんである。お前いかんでおれの指を切断すると脅す、ああいう暴力は昨今のSNSでも目につくじゃないか。それに対してパードリックの周囲の男達は脅されているなら黙っておけ、あるいはわざとやってみろと無責任なことを言うばかり。反論しに来た彼が去った後のコルムの「今のあいつはこれまでで一番面白かった」で店内に笑いが起きるのも衝撃だ。

優しく、良くあろうと生きてきたパードリックはそれが拒絶され戸惑う。「寂しさ」を感じることも知らない。ドミニク(バリー・コーガン)の助言もあり「新しい自分」にならんとするが、どうするのかと思えば他人に嫌がらせをしたり「がつんと言う」と強気に出たり。冒頭からシボーンばかりが家事をしている描写が続くけれど、コルムが現れなかったパブから戻ったパードリックがしょんぼり座っているところへ彼女が帰宅して夕食の支度を始めるのには、普段から料理でもしていればこんな時に気を紛らわせるのにと思ってしまった。

そんな二者の諍いにより最も弱い存在である動物、ロバが死ぬ。その死は聖職者には「神は気にするか?」程度のものであり、パードリックには「悪くはない、終わらない争い」の原因として利用される。島の誰もがその増長に加担している苛烈さに耐えかね、シボーンは内戦が続く本土へあんな晴れやかな顔をして渡るのだ、気がかりはあれど。しかし不自然な程の回数のカットが重ねられている、比喩の向こうとこちらを繋げるこの場面を振り返っても、戦争をこのように扱うのはあまり好きじゃないなと思う。

マーティン・マクドナーの映画における役者はいつも、それまで演じてきた役の幻影から離れて今初めてそこに現れたかのように見えるんだけど(それは良し悪しである、活かされることもあるから)、さすがに本作でブレンダン・グリーソンが警官から「本土へ行くんだが…」と聞かされる場面では『マイケル・コリンズ』が脳裏をよぎった。