揺れるとき


マイ・フレンチ・フィルム・フェスティバルのオンライン上映にて観賞、2021年サミュエル・タイス脚本監督作品。国境の町フォルバックの団地に暮らすジョニー(アリオシャ・レネール)の10歳のひとときを描く。「ロレーヌ地方のドイツ語」と二言語を使える彼が(対して母親はフランス語の綴りなど覚束ない。そして食文化は世界中どこでもそうである、マクドナルドにコカ・コーラ)都会から来た大人達の前でドイツ語を披露させられ「可愛い発音」と言われるのが切ない。

母親が同居の男に我慢できなくなり子ども全員が急遽引っ越しさせられるオープニングの一幕から伝わってくるのは、例によって子どもにとりこの世は全くままならないということだ。何でもできるからと妹の世話を任されてしまっているのに保護者なしでは生きられないだなんて、そんな境遇はおかしい。彼が引っ越し後にまず袋で運んできた魚を水槽に放すのは、自分が握っている生命への気遣いのように思われた。

ジョニーはリヨンから赴任してきたアダムスキー先生(アントワーヌ・レナルツ)に初めての感情を覚える。先生の方はドアを開け放って対応しているから、恋のときめきの瑞々しい描写を見ている私達も何とか受け止められる。小学校の担任なので全科を受け持ち一日中一緒、思えば彼も母親のようにジョニーの全てを握っていると言える。体育の時間に頸動脈に手を当てられるあの瞬間には、命を預けているとでもいうようなエロスがある。ジョニーは我慢できずにトンネルを抜け、先生の家まで何度も行ってしまうのだった。

初授業で「ご両親の職業は」「お父さんは」としつこく聞くところからして奇妙に思っていたんだけど、私はやはり、教員は「好みというものがある、感情を隠しておけない」と例え私生活でも口にしてはならないと思う、ましてやあのような場で。まっとうかつ職能のあるアダムスキー先生のそれでも抜けているところや、息子のことを考えない母親の小さな箱の中で一日中立ちっぱなしで煙草を売る姿などが、今のジョニーの視点ではないけれど収められているのがこの映画の面白いところだと私には思われた。