イェヴィダ


フィンランド映画祭にて観賞。2023年フィンランド、カトゥヤ・ガウリロフ共同脚本監督作品。スコルト・サーミ語で撮影された初の長編映画だそう。上映前のメッセージ映像の最後に監督がキートス!に続けて言っていたのが、この言葉での「ありがとう」かな。

幼いイェヴェダ(アガフィア・ニーメンマー)になぜ同じ場所で続けて魚を捕らないのか問われた祖父の「若い頃から孫のお前のことを考えていたから…お前の孫のことも」は、後に漏れ聞く母と祖父の「どうしてあの子だけ学校にやらないの」「特別な孫だから」とのやりとりも手伝って、自分は(フィンランド人ではない)サーミの血を繋いでいかねばならないという鎖となって彼女を縛り続けたに違いない。そこから外れてしまった自身を責め続けたイェヴェダ(サンナ=カイサ・パロ)が、ラップランドの生家で愛する者らに助けられ、本当に大切な物はなくなりはしないと気付いて祖父に再会し、それを姪のサンナ(セイディ・ハーラ)に繋げる物語である。

サーミの全てを禁じる寄宿学校へ通い始めたイェヴェダが、あまりに厳しい環境で生きていくため気の弱い男の子に雪玉をぶつけるように、家に帰ると魚でなくパンを食べたがるようになると、それまで欲すれば会えた死んだ祖父は彼女の前に現れなくなる。やがてレストランで働くようになったイェヴェダ(ヘイディ・ガウリロフ)は、「南部から来たエンジニア」をいわば捕まえるため祖母が運んできた札束でダンス用の靴を買い自ら「イーダ」と名乗り、学校で習った文字で手紙を書く。北に住む気はないか問うてみるも仕事がないと返され彼の車でストックホルムへ発つ。これらの回想の最後はこんな言葉で締めくくられる…「しかしイェヴェダにも彼女の生活があった」。こうして人生が肯定される。

祖母に結婚を報告する時の「水汲みも薪割りもしなくていい、魚のはらわた取りも」に、そういえば幼いイェヴェダは祖父の脇ではらわた取りをしつつも「仕事なんていや」と言っていたなと思い出した。少数民族が、あるいはマイノリティがすることは属する全員がそれを好きでしていると思われがちだがそんなわけはないだろう。サーミ人でなければ受けない類の抑圧の下で、他の誰でもない一人の女性の生きてきた道のりが確かに描かれていた。