ジョイランド わたしの願い


病院のベッドに横たわり「出生前診断では男の子だったのに…」と沈み込む一家の長男の妻ヌチ(サルワット・ギーラーニ)の様子に、冒頭無邪気に遊んでいた三人の娘が違って見えてくる。この映画で一番印象的だったのは、彼女達が母親や叔母であるムムターズ(ラスティ・ファルーク)に構われないところ。ハイダル(アリ・ジュネージョー)との間に会話もなく置かれて寝かされ、おねしょすると疎まれ、「近所の男の子が髪を梳かせとばかり言ってくるのが嫌」という訴えも放っておかれ、終盤には一家の父(サルマーン・ピールザーダ)の「占い師にこの家の男子は二人が最後と言われた(がまた孫が生まれる)」に抵抗してお腹を苛め抜くのに使われる。女達には全く余裕がなく、子どもに皺寄せがいっている。

中庭での食卓の場面から、この家は社会規範を強化する共同体、ビバ(アリーナ・ハーン)が帰る、グルを中心とした第三の性の共同体とは違ったものだと分かる。そこでは「しじゅう家におり男子を産む」という最も社会に望まれる存在こそが最も追い詰められている。そこから抜け出しての会話シーンは奥深く、ムムターズがダンスを始めたハイダルに「楽しい?」と聞くのに一瞬、パートナーが楽しいかどうかって大事なことだよなと思うが、次のセリフで彼女の心情が浮き彫りになる。体の線が出る服を着なきゃ、妊娠すると夫がけもののようにセックスしたがる、などと話すヌチとムムターズのやりとりにも実に機微がある。そんなことを言っていたヌチが最後には夫に触らないでと怒鳴るのが…ビバもそうだったけれど、女って、というような言い方はあまりしたくないけれど、許せない存在に触られると虫唾が走るんだよね、と胸に染みた。

映画の終わりに「広い」海へ向かうハイダルが思い出すムムターズとのやりとり…「家」があるからこそのあんな初対面だけど、最高に優しい初対面。抑圧ゆえの状況下で精一杯の思いやりを交換する、それって多くの映画が描いてきたことだけど(この映画のような状況は稀有でそこに大きな意義があるけど)、だからこそあまりに映画的で、気持ちの置き所がなく当惑してしまった。いや、映画を見た日に心に残るのが二人のあの笑顔でも、次の日から違うことを思えばいいのだろうか。