花嫁はどこへ?


冒頭の旅の様子を随分冷たい夫だなと見ていたら、後の歌の歌詞によるとどうやらこのディーパク(スパルシュ・シュリーワースタウ)は極めて普通の男で妻プール(ニターンシー・ゴーエル)を愛しているらしい。それなのに道中妻の顔も見ず手も取らないなんておかしいじゃないか…と思ってしまうのは私がインドの風習に疎いからだが、映画もそう考えていることがラストシーンで顔を見合い手を繋いで歩いていく二人の姿から分かる。妻が行き先の住所も何も知らないことから夫は大切な存在を一時失うわけで、理不尽な風習は強者の側にも不利益を及ぼすと訴えているのが上手い。因習を破ったプールの一声で二人が再会を果たす、ホームの場面が鮮やかだ。

一方のジャヤ(プラティバー・ランター)は結婚などしたくはなく(前妻を殺したであろうことが作中ほのめかされる)夫から逃げたくて、自分を妻と勘違いしたディーパクについて彼の家までやって来る。初対面の人々の前で「だってあんな状況じゃ…」というようなことを口にして、女が喋った!と皆を、中でも小さな子どもをぽかんとさせるのが面白い。彼女によって一家に自由な空気が広がっていく。「移動中の花嫁はベールを被ったまま(足元しか見えない)」なんてのがそもそもおかしなことなんだから取り違えが起きるのだっておかしなことじゃない、というストーリーには創作物ならではのパワーを感じた。

「女はずっと詐欺に遭ってるのさ、『ちゃんとした女性』という騙し文句でね」とはプールが降り立った駅の屋台の女主人マンジュ(チャヤ・カダム)の教えだが(この詐欺がfraudと英語なのは彼女に学があることを示しているのか彼女が相当する母語がないと考えているという意味なのか、何なんだろう)、ジャヤはその「ちゃんとした女性」を逆手に取って写真撮影を拒み、プールは「よその台所を使いこなせるように」躾けられた腕前で美味しいお菓子を作って稼ぐ(紙幣を「花嫁衣装」にしまいこむのがよい)。このあたりに大変に映画らしい面白さがある。でもどこかすっきりしないのは全てがファンタジーめいているからか、それとも20年前を舞台にしている(おそらく携帯電話やインターネットが、あるけれど今ほど便利には使えないという点でそうなのだろう)点を何となく逃げのように感じてしまうからだろうか。