外国映画の中の日本にままある、うちら英語表記を使ってるよという箇所がわざわざ日本語に訳され(更に言うなら使わない類のフォントがあてられ)ている描写には白けてしまうが、この映画の「第一処理場」に始まる日本語表記の数々にはそれを感じない。監督の拠点はニューヨークだそうだから同じアプローチなのかもしれないけれど、ここに溢れる日本語は排外主義が進めばこうなるかもしれないという表現に思われた。それに逆らっているのが中国語や英語が求められるクラブや多言語の落書きが踊る部室である。自由を求めれば内へ、内へこもるしかない。やがてそこにも管理の手が伸びる。
弱い者の間にこそ亀裂が走るという、多くの映画で訴えられている真実が、ここでまた語られる。「日本人」であるユウタはシステムが窮屈なら内に隠れてうさを晴らせばいいと思っているが、クラブの手入れで警官に「在日韓国人か、最近『ガイジン』ばっかだな」と言われるコウの方は外=道へ出なければと考えるようになる。「大学で出会ってたらユウタと仲良くなれたかな」とのコウのつぶやきには、裏を返せば政治観が分かれる前に仲良くなれたことの貴重さが表れており、聞いていたユウタはそれに気付いて維持せんと行動する。作中に散りばめられた、皆で隠れてトムを驚かすといったような他愛なく楽しい時間がその思いの裏打ちのようだ。
舞台が「近い将来(の日本の地方都市)」なのは警鐘だから、登場人物が高校生なのは、一つには多くの人にとって分岐の時期であり、そこでの意思いかんで人間関係が左右される年代だから。更には彼らが持っている大きな未来、いや大きさそのものの素晴らしさに目をやるため。ばらばらの皆が集められる学校が舞台でありながら授業風景が皆無なのが、単にそんな場面には用が無かったからだろうけど、学校とは学科の勉強を通じて自分で考えることを学ぶ場所のはずなのに全然そうでない、近い将来にはもっとそこから離れてしまうだろうと言っているようだった。