私には「入所者もそうでない者も同じ」という演技を磯村勇斗だけがしているように見えた。彼演じる「人じゃないものは要らない」と信じるさとくんこそが彼がそう見ている存在と同じだという含蓄ある要素を、主役の洋子(宮沢りえ)との対話などが覆い隠してしまっているように思われた。それよりも入所者たちの姿をもっと見たかった。演じるのに負担がありそうな場面も多かったけれど(そういう場面は役者さんが担っているようだったけれど)、こちらの感情をコントロールするような音楽無しで、もう少し見たかった。
尤も映画が「太陽の下に新しいことは起こらない」という旧約聖書の言葉と月夜に始まり、昼間にも実は出ている月に終わるのは(これには大島弓子岩館真理子がモチーフにした、月はいつもあるということを思い出した)、月を見ることのできる人々が社会を変えていかねばということなんだろう。

重度障害者施設で働き始めた洋子と同僚の陽子(二階堂ふみ)、さとくん、洋子の夫昌平(オダギリジョー)による家飲みや陽子と両親の夕食の席など、現場を知る者と知らない者が混在する場で前者が「現実」を口にするも後者があの手この手で話題を変えてしまう場面が繰り返される。森の奥深くに施設を追いやっている実際をうまく映している。
主要人物が全員創作活動をしているのには違和感を覚えた。「生きる意味」について皆が口にするが、私が創作活動をしないせいなのかその捉え方が随分偏っているように感じられた。あるいは「何かを作り出す」ことに重きを置いている人々が生の意味を探るところに意義があるのだろうか。執筆に取りかからんとする洋子に昌平が自分のノイズキャンセリングイヤホンを渡すのが印象的だった。少なくとも二人は創作のその時には自分の声だけを聞くと決めている(日々の生活にはそれを妨げるものが多々あると考えている)わけだ。

洋子の友人(板谷由夏)の「病気と障害は違うから」に、仕事がら常に意識せざるを得ない物事の分類とでもいうものが確かにあるが、当事者でないのであろう、医師である彼女は例えば洋子の亡くなった息子のような個別のケースにつきどう捉えているのだろうと考えた。
自身の妊娠を教えられた洋子は「生理もまともにきていなかったのに」と戸惑うが、だからといって避妊していなかったのかと引っ掛かってしまった。この要素は作中の夫のキャラクターに全く影響を及ぼしていない。この映画に限らず多くの作品が「妊娠した」という点ばかりに光を当ててその原因を軽視しているような気がしてならない。