シスター 夏のわかれ道


「残りごはんで作ったお姉ちゃん」を目にしたとき不意に分かった、アン・ラン(チャン・ツィフォン)を縛り付けるかに見えた6歳のアン・ズーハンこそが、彼女が生まれて初めて接した、自分から自由を奪う世界にまだ属していない存在なのだと。これは彼女が弟との関わりによって解放されていく話であった。

アン・ランは彼氏の家族との食事にと並べてみたワンピースを結局着ていかない。現在の彼女のショートヘアにパンツという格好は、幼い頃には結った長い髪にスカートと「女の子らしい」のを好んでいたのが父親の「たけのこ炒め」などを受けるうちにそうなったのだと推測される。次第にスカートも履くようになっていくのがここでは解放のしるしである。

アン・ランの「一人で生きる」とは「勝ち目のない闘い」に挑み続けること。そうでなければ舟の一部になって皆と同じ方向に流れていくしかない。泣くのはお風呂場の壁に向かって。そんな中で溜まっていた言葉の数々を、始めは対等には話の出来ない弟に対して、やがては亡き両親の写真に向かって、お墓に向かって、口にしてあの紙を破ることができるようになる。

「息子には暴力を振るわれたし父親には覗かれた、おばさん(ジュー・ユエンユエン)はいい人だけどその結果はよくない」、だから私はいい人にはならず闘うというわけだ。その姉の闘う姿を弟はいつも見ている。子どもゆえまだ彼女を抑圧する世界に属していないというのはすなわちそういうこと、闘う精神を伝えることができる存在、自分が世界を変えればその影響を受ける存在だということだ。

おばさんの「育てれば将来恩を返してくれる」、おじさん(シャオ・ヤン)の「育てて面倒を見てもらう」などは、それに合わせて自分を折り曲げざるを得なかった世間というものを正当化しているようにも、自虐のようにも聞こえる。だからその世間と闘っているアン・ランに、今更だけど、実際には違うけど、親のようだと認めてもらうことで、二人の方も救われたように私には見えた。

「嫁」を迎えようと家を改装している裕福な親に北京行きの計画を言わない、「彼女は医師の家系でコネもあるから逆らわないほうがいい」などとアドバイスする彼氏の「自分と同じような相手とじゃうまくいかない、ぼくだからうまくいってるんだ」との言葉は、彼にとって闘いとは個人単位のもので社会が闘うべき相手だと思っていないことを表しているんだろう。世界に向き合わない人とはそりゃあやっていけない。