ボストン市政府が提供する様々なサービスについての四時間半。ほぼずっと、誰かが誰かに…誰かと誰かがではなく…話しているのを見ることになる。オープニングのコールセンターはともかく他は撮影後はオンラインで行われていたのだろうか。組織を背負いつつ全員が大変に個人でもって話をしており、結婚式の時の「ここが私の一番好きなところです」なんて、私があの仕事をしていたら言えるだろうかと考えた。自信がなきゃ言えない。
マーティン・ウォルシュ市長も自分の話をする。高齢者の会での亡き父の薬代についての話程度なら「よくある」だろうが、ラテン系の職員の会でのアイルランド系移民の歴史の話(「アイルランド系は同士を政治の場に送り込んで自分達を認めさせてきた、あなた達にはまだその席がない、これからだ、市はそれを支援する」)、看護師のデモでの自身が癌で入院していた時の話、退役軍人の会でのアルコール依存症だった時の話など何でもさっと出てくる。「より多くの市民と体験をシェアできる」人が市長をやっているわけだ。
市長は「話を聞いて学んだ」と言うが、「聞いている」ところは映画には(質疑応答程度はあっても)収められていない。他の職員についても同様で、ここに映っているのは彼らの仕事のうちの「話す」場であるとも言える。そうすると「話す」場を持たない、少なくとも多くは持たない職業の人々の仕事ぶりが心に残るもので、ゴミ収集の場面で車に放り込んだベッドや机が、街路樹管理の場面で剪定した太い幹が一瞬でつぶされる様子に、話さない人の仕事が一番危険じゃないかと思わされる。
市の決まりにより開かれている、大麻の店を開きたいアジア系の経営者と当該地のドーチェスター地区住民の集会(市長はいないけれど、私としてはここが「クライマックス」に思われた)でようやく気付いたことに、例えば迫られ続ける立ち退き、銃撃や暴力といった、市民が遭っている辛苦や恐怖は映画には一切映っていない。糞を見せて訴えられるドブネズミの姿だって。それらを浮かび上がらせて解決するのに必要なのが「話す」ことで、だからこの映画にはその行為ばかり映ってるんだと分かった。コールセンターで始まって終わるのも一番身近なそれの例だと考えられる。