ブルックリン



映画は、主人公エイリシュ・レイシー(シアーシャ・ローナン)がアメリカへ渡ることを雇い主に告げんとする場面から始まる。冒頭の、彼女が「日曜だけ働く」雑貨店での一幕(そこではその才覚や意向が活かされる余地は無い)と、帰宅後の家族での、姉のローズ(フィオナ・グラスコット)が雇い主の「がみがみおばさん」を明るく揶揄する食卓の場面からは、エイリシュが「なぜ」アメリカに渡るのか分からず、知りたく思い、もどかしかったけれど、徐々に明かされるその事情よりも、手短に描かれ的確に伝わってくる、その時の彼女の立場や気持ちに心惹かれた。


次に心惹かれたのは入国のくだり。予告でも印象的だったエイリシュの「緑」のコートを羽織った格好が、船で幸運にも同室になった、私からしたら是非友達になりたいタイプの女性の見立てによるのだと分かりぐっときた。入国審査の列を進むエイリシュの姿にかぶるアドバイスの数々、あどけないのはだめ、毅然として、緊張しすぎず、無愛想すぎず…そして最後に「アメリカ人のように」。あの女性がアメリカにどういう思いを抱いているか想像してまたぐっとくる。彼女が「『他人』と話すのもいいものでしょ」と一線を引くところもいい、だから最後、アイルランドから目が離せないエイリシュも、思い直して「他人」に同様に親切にするのだ。


エイリシュの「恋模様」については色々あるけど(笑)ブルックリンにて、講義を終えた大学生の男達がぞろぞろ帰る中、路地で一人、背を向けて待っているトニー(エモリー・コーエン)の姿が効果的だった(イタリア人の彼が「小柄」であることが、多くの場面で功を奏している)。配管工として働く彼の家では、末の息子を大学にやるため皆が頑張っている。初めてのデートでエイリシュが「私ばかり」と言いながら喋りまくるのは、あの時、彼女が心許せる相手に話をしたかったから。アイルランドに戻った際に「教養にも今の仕事にも恵まれているが『ここから出られない』」ジム(ドーナル・グリーソン)が喋りまくるのは、同様に彼が話したかったからだし、それを「嬉しい」と聞くエイリシュは、かつての自分を思い出していたに違いない。


この映画における「デパートの売り子」は、「ズートピア」でジュディが回される交通課の仕事にも近い。他にやりたいことがあるのに、それ以外の選択肢が無い。トニーの家での食事から帰ったエイリシュが、寮の「先輩」に結婚しないのかと尋ねると、「夫が女を作って出ていった」という彼女は「短気で不潔な男に洗面所を占領されるくらいなら、あなたとずっと喋っていたい」と返す。この切なさ。「裸足の季節」(感想)の予告で「夢見る季節には終わりが来るから、扉を開けて走り出そう」とか何とかいうナレーションが流れていたけれど、この映画は、自分で歩いていくのに必要なのは「手に職」だと言う。エイリシュは素養と努力で、あそこから抜け出せた(どうすりゃいいのさ「普通」の女は、とも思ってしまったけどね・笑)


シアーシャの表情が長く映されるのが二回、いずれも故郷の親友ナンシーと一緒の際というのが気になった。異様なほど長い一度目は、冒頭のダンスパーティでナンシーが男に誘われて居なくなったのを見届けてその場を後にする時。こういうふうに生きられたら幸せだけど自分には出来ない、という心の表れかと思ったけど…違うような気もする、どうだろう?