梨泰院クラス


映画カテゴリながらドラマだし、断っておくと16話のうちの4話までしか進んでいないんだけども、面白く見ているので感想を書いておく。
序盤で主人公パク・セロイ(パク・ソジュン)の「(ある人物の口にした)『復讐』という言葉で空っぽの心が満たされた」とのナレーションにさわやかな音楽が流れた時、意外な感じを受け、これは彼が思いがけないところに辿り着く話なんじゃないかと予想して見ている。キム・ダミ演じるチョ・イソの登場シーンからセロイとの出会いまでは、昨今見た映像作品の中でも最高に胸がときめいた。

主人公のセロイが表すのは空気を読んでの同調圧力への抵抗、舞台である梨泰院が表すのは初めて町が映る際の描写からして多様性、このドラマはその二つが出会うという話に私には思われた。それ(その二つが融合して形になること)は「決して夢じゃない」のだと(2話ラスト)。
梨泰院について、オ・スア(クォン・ナラ)は「男女の出会いやナンパを求める人は存在しない、大人は来ない」と言う。イソにはナンパはありのようだ。この辺りは「大人」観の違いのようにも思われる。大人に正しく保護されてこなかった若者達が紡ぐこのドラマにおいて、この町は古い大人じゃなく新しい、正しい大人が生きる場所なんだろう。その象徴がセロイであり、チェ・スングォン(リュ・ギョンス)が彼を呼ぶ「アニキ」は新鮮に映る。

韓国といえば映画ばかりでドラマには殆ど触れずに来たのが最近見るようになり、その特徴…とはくくれないけれども感じが少し掴めてきた。抒情的な長文のようとでも言おうか。せっかちな私には当初全てが間延びして感じられたものだけど(今でもそうだけど)、何が起きたかじゃなくどう描くかが大事なのだ。とはいえ映画とは違う形式や方法があるものだと思っていたところが、事故などの流血シーンだけは映画と同じくすっぱり鮮やかでびっくりした(笑)
他に見た作品でもそうだったけれど、韓国のドラマでは男性がやたら他人(主に女性)の頭を触るのが気になる。本作の場合セロイは愛情をもって、悪役チャン・グニョン(アン・ボヒョン)は乱暴にという対比で前者の善性を強調する意図があるようなんだけども。これに限らず古いなと思ってしまうことはある。

4話はイソがセロイを前に「上質な男に私が仕立てる」と決意するところで終わる。先日フォーチュン・フィームスターのスタンダップを見ていたら、現在はオープンリーレズビアンである彼女が少女のころ母親に「それはphaseにすぎない」と言われたことをいわゆるマイノリティあるあるとしてネタにしていたんだけども、イソのこの、男を育てるという感覚は私にはphaseに思われた。phaseはないところにはないが、あるところにはある。