水も漏らさぬ出来だった、窮屈なほどに完璧で、だから私はオディアールを好きになれないんだと再確認してしまった。
最近の映画はまず真っ暗な中に音だけが響くものばかりだから、本作のオープニングには「やればできるじゃん!」と嬉しくなった(笑・いかにもオディアールらしい意匠)スリランカでの一幕の間は息をほぼ止めていたようで、気付いて深呼吸した時に丁度、画面が真っ暗になり突然の静寂、大きな吐息が辺りに響いてしまった。そしてタイトル。
私にとってこれは、「家族」としてひとつところに暮らしながら別々の道を歩んできた二人が、最後にあの部屋で真に「出会う」物語だった。だから振り返ると、「自分は『家族』と本当に出会っているだろうか」と思う。
ニュースで「終わり」を知り、ここで生きていくと決めた「ディーパン」は、自作の道具箱を抱えて意気揚々と出勤する。しかし、作中初めて「屋上」を越えてぐんぐん上っていくカメラはふっと止まり、銃声に似たある音で次の場面が始まる。
祖国から逃げてきた「ヤリニ」に、「祖国であったのと同じこと」が迫る。彼女はちょっといいなと思っていた雇い主に「祖国であったのと同じこと」の臭いを感じ、夫に安堵を求める。やがてその「臭い」は男個人のものではなく、しかも臭いどころか「そのもの」だったと分かり、夫を含む土地に見切りをつける。しかし最後に、扉の向こうまで来た「それ」に遂に足元を掴まれるのだ。
「明日から学校なんだからスプーンを使え」と「イラヤル」に注意し、自分からそうして見せるディーパンが、「皆と同じようにするんだ」としきりと口にするのは、自身に言って聞かせているようでもある。だから終盤、手掴みで食事をする顔のどアップに、ああ、彼は「スプーンを捨て」たんだなとショックを受けた。それに「学校」は未来を生きるためのものだから、未来も捨てたのかもしれないと。
管理人としての職を得たディーパンは、電気工事からエレベーターの修理まで何でもこなす。ブルーシートで道具箱を作ったり、金箔を貼って妻子の仏壇のようなものを作ったり、まさにDIY映画だなと思いながら見てたんだけど、彼が祖国で何をしていたか思い出し、そうだった、何でもやらなきゃならないんだったと悲しくなった。
ところで、近年の映画には「子どもはその国の言葉が分かるが親は分からない(ので子が親のため「通訳」をする)」という描写が本当に多い。今年もこれで三本目くらいじゃないかな(直近では、全然「今」が舞台じゃないけど、「ビートルズ」のデンマークからノルウェーに来ている親子)本作でのその場面は「来たばかり」すぎて、娘もさすがに「速くて分からない」けれども。ちなみに私がこの「子が親のために『通訳』をする」という話に初めて触れたのは、10年以上前、新宿区内の小学校に勤めていた知人の教員の口からなんだけど、日本映画にももう頻出なんだろうか?そう数を見てないから分からない。