独裁者と小さな孫



公開初日の初回を、新宿武蔵野館にて観賞。


終映後の想田和弘監督のトークイベント、とても面白かった。聞きながらふと、この映画は学校で演るのにぴったりだなと思った。「効率的に色々な意見を出し、もやもやさせて終わる」って、学校に必要なことばかりだから(笑)とはいえ「『プロパガンダ』めいたところは無いのに『これが民主主義だ』と全編で言っている」とも。司会の方が「芸術家と活動家の境界」について触れると「映画は栄養分だから」。


オープニングはイルミネーション、国営放送が「夜なのに昼のように明るい」とこの国を誉めそやす。この時点では「人々」の暮らしぶりも分からず、私が国民ならイルミネーションを喜んで見に行っていたかもしれないと考えるうち、少し前に見た「黄金のアデーレ」について、同居人が「多くの人はナチスを歓迎する側の筈なのに、この映画を見れば主人公の側に立つんだろうから不思議だ」と話していたのを思い出した(でも最近はこの主人公に「共感」しない人も多いのかなとも思う)そうしたら、終映後のトークにおいて監督が開口一番「映画は目と耳を使う、時間も体験する、現存する中で最も『疑似体験』の出来るメディアだ」と言うので、それもそうだ、なるほどなあと思う。


「効率的」と言えば、トークでは「孫が一緒に逃亡するという設定が上手く機能している」という話も出た。確かに子どもでなければ、ああいう状況で誰かにお尻を拭いてもらえるわけがないと分かってしまう(から、観客には彼らがいつもお尻を拭いてもらっていると分からない)だろう。と思いきや、大統領でさえも、あんな状況において毒見をさせるというのが面白い。「アイスが欲しい」と登場して程無く人が絶命する場に遭遇し、うんこをしながら「死ぬってどういうこと?」と祖父に訊ねていた彼が「その後」どうなるかは分からない。見ながらふと、「ベルサイユのばら」の「貴族のやつらを縛り首」のコマが脳裏に浮かんでしまったけれど。


「どこでもない国」という文字列で始まる本作には、その「どこでもなさ」への配慮によるお伽噺めいた雰囲気が終始漂っており、特に大統領と孫が変装して世に紛れる、すなわち彼らの目が人々により近くなるあたりから、より「ファンタジー」めいてくる。正確な意味では違えど、主人公の視点でもって、彼らにとっては「非現実的」な「未知の世界」が描かれるのだから、そう感じるのも当然だろう。その「感じ」が終わるのは、二人がとある暴力を目の当たりにした時、それまで「非現実的」だったものが否応なしの現実としてなすりつけられる時だ。なすりつけられた「それ」が最高潮に達するのは、終盤とある人物の顔のアップが延々と映る場面で、私には、その顔に遮られて全く見えない大統領の心こそがそこに沿っていると分かった。


その後の車内では、浮かぬ顔としか言いようの無い表情の大統領に対し、「金持ち」の老婆は隠していた口紅を塗り直し、子ども達は難民申請のための英語の練習に余念が無い。老婆は子らの英語に関する質問に「our life」と正しい答えを教える。後に大統領の「私のマリア」が「人間は退化している」と吐き出すように言うが、人々が「退化」すれば弱者から犠牲になる。だから私だって「退化」を防ぎたいのだ。結局はour life、自分と「同類」のためなのだ、勝手なのだ、そんなことを思った。