神様の思し召し/リトル・ボーイ 小さなボクと戦争



▼主人公が「キリスト教」に触れる話、二作。「神様の思し召し」は「『最強のふたり』再び」が宣伝文句だけど、私が(部分的に、だけど)見ながら思い出していたのは「潮風のいたずら」。あれのおじさん×おじさん版。それにしても、先日引き合いに出した、同じくゴールディ主演の「バンガー・シスターズ」しかり、今は「誰かの妻」というキャラクターの女性は、そこから「脱する」ことがテーマである場合にしか、もう映画には出てこないものだな。


この映画で気に入ったのは、「正しい」ことと「思いやりがある」こととは違うという当たり前のことを描いている点。「正し」くさえあればいいと思ってる人ってたまにいて、癪に障るものだけど、映画では実はそんなに見掛けないから。神父が一言「性格が悪いな」で済ませる、あれがいい(笑)長男が「ゲイかもしれない」という話題になると、「嫌な奴」である主人公は「彼が幸せなら」と(例え建前でも)口にし、彼に虐げられている周囲の人々の方が差別をするというのは、面白い描写だなと思った。



▼「リトル・ボーイ」で、主人公のペッパー少年が取り出した奇術師の漫画に司祭(トム・ウィルキンソン)が「これはファンタジーだ」と言った後、部屋に掛けられたノアの方舟の絵画が映るのには盛大に吹き出してしまった。少年の視点で紡がれるこの映画は、「宗教」に初めて触れて行動する彼の一途ゆえの混乱がこちらに乗り移ったように、見ていて落ち着かない。「神様」の方は、それこそ神視点だから(笑)見ていて惑わない。しかし「飲み込みやすい」のは「リトル・ボーイ」の方である。妙なことを言うようだけど、映画の中に二つの「神」は要らないのかもしれない。


エミリー・ワトソン演じる母親が夫のジーンズをかき抱いて嗚咽するのをドアの隙間から見たペッパー少年がそっときびすを返す場面も印象的だ(戸惑って、というより明らかに「配慮」している)。この映画は、少年が、母と兄という「家族」以外の大人を頼って交流する物語なのである。心に残ったのは少年とハシモト(ケイリー=ヒロユキ・タガワ)が日本を望む海辺のベンチで抱き合う姿だけど、今振り返ると脳裏に浮かぶのは、捕虜から生き延びた父親(マイケル・ラパポート)の再会時の表情。主人公の語る物語(思い出)においても「破顔一笑」なんかじゃない。ああいうところにも「戦争はよくない」というシンプルなテーマが見える。