最近見たもの


▼メッセージ


ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督作には、私が受け取れる類の情報が少なくて飽きてしまう。今回もそうだった。面白いお話だと思うけど、何でこんな映像見るのに時間使わなきゃなんないの?って感じ(この「時間」とは映画上映中の時間のことを指す)。
物理学者と言語学者が初対面時、前者が学問の話を始めると後者が「コーヒータイム」トークをしようと言う。前者がホワイトボート一面に書いた数式の真ん中を後者が少し消して、「問い」を書く(「疑問符」と「あなた方とあなたの区別」が重要とは示唆的じゃないか)。ああいうのは面白かった。


学者二人に対して軍人達は、どんな話(時に「都市伝説」)を聞いても「その後にその人々は他の人々に脅かされたか否か」が頭に浮かぶようになっているあたり、「国民」を守ることが仕事なんだなと思わせる。
引っ掛かったのはニュースの「中国の言語学者が開戦を通告しました」という一言で、その人、どんなふうに仕事をして、その時にはどんな気持ちだったかなとしみじみ考えてしまった(あるいは学者のあり方が全然違うのかなと)。


▼バッド・バディ! 私とカレの暗殺デート


こんなに合わないのは久々というほど好みじゃなかった。技術の知識がないので普段はそんなこと思わないんだけど、編集のせいなのか、特に前半、時の流れが繋がっていないように感じられてしまった。それなのに「流れに乗っているものは逆行しない」なんて話が出るもんだから。
冒頭、サム・ロックウェルが踊るところに!という、普通に考えたら「かっこいい」はずのオープニングタイトルからしていまいちで、変なことを言うようだけど、これほど「エポックメイキング」という言葉から遠い映画ってないなと思いながら見ていた。


印象的だったのは、アナ・ケンドリックの「変なお婆ちゃんになるのが夢」とのセリフ。作中の彼女は(恐竜は好きだけども)「何もしていない」。私も昔から特に何もしていないけど、一足飛びに年を取りたいと思ったことはない。もしかしたら彼女は何かしたいけど何もしていないのが辛くてそんなことを言うのかなと想像した。この「何もしていない感」は「スウィート17モンスター」にも似ているから、近年の流れかな。
面白かったのは、アナが彼氏に「性行為について意に沿わない事をやらされそうになる」のに話が始まり、彼女とサム・ロックウェルとの行為は常に彼女が求めて初めて行われるということ。これは「悪人」を殺すのと自分に性行為を強要するのとどちらが許せないかという話だとも言える。


▼皆はこう呼んだ、鋼鉄ジーグ


イタリア映画祭で「来る日も来る日も」を見ておいてよかった。本作の「悪役」ジンガロを演じるルカ・マリネッリときたら、クリスチャン・ベールに対するヒース・レジャーのようなほぼ主役ぶりだった。「来る日も(略)」の役との違いが楽しめた。
犬が人殺しのために飼われる(でもってそのために殺される)映画、今年もう四本目じゃん、流行ってるなと思ったけど、エンドクレジットで2015年の映画だと気付く。


面白かったのは、主人公エンツォが懐から金時計を出すタイミング。必死こいて走って逃げてるオープニングからのあれこれを経て、ああ、これのために…という。時計そのものがどうというんじゃなく、生きるために必死こいてこすいことをしているのがしみじみ伝わってきた。
もう一つは、エンツォがヒロイン・アレッシアに対して言う「お前は壊れてるな」に、試着室で中出しするお前こそ壊れてるだろと思っていたら、ジンガロのファックシーンもあって、でもこっちはまともなの。どこにまともな、あるいはまともじゃないファックがあるか分からないものだ。


▼オリーブの樹は呼んでいる


ケン・ローチと長年組んでいるポール・ラヴァーティが脚本を書き、彼の妻が監督した作品。脚本家は誰が撮るかで内容を変えるものなのか、何が違うのか分からないけれど、ローチの映画より随分じめっとしていた。劇場では結構笑いが起きていたけれど、私にはすごくもたもたして感じられて、全然笑えなかった。
印象的だったのは、喋らなくなり徘徊もするようになったおじいちゃんについての、家族の「構ってほしいのさ、お前(主人公アルマ)の髪形と一緒だ」というセリフで、昨今「髪形」がそういう意味合いを持つことってあまり無いから、何だか新鮮だった(笑)


面白いのはスペイン人のドイツ観で、叔父は「ドイツと聞いただけで委縮する、奴らは背も高いし英語もうまい」(実際ドイツにて、彼らの顔は映っているがドイツ人は首から下しか映っていない場面がある)。アルマに恋する同僚は「向こう(ドイツ)に残ってもいい」、当の彼女はわあ、とうとう来ちゃった〜という仕草をする。
もう一つ面白いのはSNSが、少なくとも物語の終わりまでは何の「成果」も出さないこと。映画はそれを批判的に描いているわけでは全然ないけれど、群衆の中で木に上るアルマと見上げる叔父とがただあるシーンには、核にあるのはただ、当人なのだということが表れていた。