公開二日目、新宿ミラノ1にて観賞。
なんて見事なアップデートだ!と思うも、私はオリジナルの方が好き。オリジナルの「ロボコップ」は、色々曖昧ながら、ロボコップが「記憶」の残存に悩まされているということだけがはっきりしている。私はそれを見て、「無」にも「人間」にもなれないという「恐怖」…物語の最後にマーフィーのそれが消失しようとその存在自体は消えない、漠然とした「恐怖」を感じる。そこに魅力がある。本作は皆の事情や思惑、ロボコップなるものの仕組や作中辿る過程が「明確」で、私はマーフィーが「自己を確立」するまでを見届けるのみ。こういう映画なら「ロボコップ」でなくてもいいじゃんと思ってしまう。
近年の「アメコミ映画」調でもある。もっとも、マーフィーが「4カ月」ぶりに自宅のベルを鳴らす場面でちょっと笑ってしまうのは、私としては、バットマンが耳を付けて真面目な話をしてる場面に笑ってしまうのと同じなんだけど、考えたら「ロボット」は「ありえる」から、これについては自分の感覚をアップデートしなきゃいけないかもしれない。
オープニングタイトルにあのテーマ曲!で気持ちが上がり、次はどこで聞けるのかと思っていたら、オリジナルではマーフィーが「感情」を取り戻した時に流れるのが、本作ではそれを失った時に流れる(お披露目のニュースのBGM)。作中の世界が求めている「ロボコップ」はこれなのだ、という皮肉とも取れるけど、それじゃあオープニングは何だったんだと釈然としない。
また、オリジナルの、妻子を失ったマーフィーの「独り」感にぐっときていた私としては(大好きなナンシー・アレン!は居るけど、うちで待ってるわけじゃなし、あの着かず離れず感がいい)、本作の彼が妻子の存在ゆえに「人間」に戻る(博士にもそのメカニズムは「分からない」)というのも好みじゃない。終盤、ボスの居場所を聞き出すために締め上げた下っ端に「妻子が殺される」と乞われ、データを参照し嘘と見破って彼の手を踏み潰す場面には、もし「嘘」じゃなかったらその妻子のことを案じて迷うのだろうか?と考えてしまった。データに基づいて行動するマーフィーが「嘘」を付く者を「悪」と断じるのは、それ以外の、いわば余白の、あるいは本質的な「悪」を認識できないということで、こうした状況を描くセンスは「現代的」だなと思う。
ノートン博士(ゲイリー・オールドマン)は「脳」こそが「人間」、体が部分的に「機械」であっても「脳」が残っていれば「人間」なのだと言う。しかし同時に「感情を抑えなければ(自らの部分である)機械を扱えない」とも言う。後に彼がマーフィーの体内のドーパミンを減少させる(=「『感情』を無にする?)のは、「感情」なるものは無くてもいいと考えているからなのか、あるいは単に急かされてヤケになっているのか。
ともあれマーフィーは、誕生時こそ、オムニ社でリハビリに励む人々と「同じ」「人間」だが、途中、博士の手によって「感情」を消され「人間」でなくなる。「脳」こそが「人間」であっても「感情」が無ければ「人間」ではないのだという、単純な話だ。博士はこの物語の後、冒頭に出てきた義手のギタリストに再会したら、どういう会話をするだろう?振り返るとそのことだけが気になる。